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荒野の叫び 2010年12月の記事

随考「人権についての考察」

2010.12.03

 至上概念の中心に位置する人権をどう考えるかということが重要である。
 人権が平等を伴う考え方である。そして、この平等の中身が何かということである。人間が住む地域には、砂漠があり、森林があり海があり海洋の島があり、高層ビルの立ち並ぶ都市があり農村があり、高地があり低地があり、気候的にも、モンスーン地帯があり、ツンドラ地域もある。
 そうした地域特性を考えるとその平等という概念は非常に不透明となる。寒い地域ではその寒さを防ぐための暖房が必要であるし、熱い地域では冷房が必要になる。しかしそれを実現することが平等なのか。その実現が快適という概念で同じようにとらえられるのか、親が10人の子供を世話する世帯と一人っ子の世帯で平等はどう実現するのか、すべての人間が文明の豊かさを享受することが平等であるとして、そうしたことがそれぞれの文化の違いの中で可能か。牛のステーキがおいしいという時に、それを宗教上の理由で食さない人間に平等はどのように成立するのか。
 こうして平等についての考え方は、様々なレベルにおいて様々多様な文化があることを考えると、極めて曖昧となる。
 そこで、こうした平等を考えるときに最低限の文化的生活を確立するというような文言がしばしば使われる。しかし、その最低限の文化的生活ということも、文化の発展によって異なってくる。
 縄文時代のわが日本において、最低限の文化的生活という概念が成立するのかがまず問題である。そうすると、こんにちの豊かな社会においてのみ、この最低限の文化的生活ということは考えられるのか。
 将来においては何を持って最低限の文化的生活とするのかが問題である。今日の最も貧しい人間の生活ですら、冷蔵庫があって、テレビがあるならば、縄文時代の最高の権力者よりも豊かという人さえいる。平安時代の貴族よりも、こんにちの中産階級は明らかに豊かだという人がいる。
 そうすると、比較の概念で、貧富の差をなくそうというほうがより現実的な考え方といえる。
 すると、発展する社会ほど、貧富の差が激しくなると言う人がいる。ジャンジャックルソーが原始共産制の時代こそ人間が最も幸せであったというのは、こうした発想によるのであろう。
 しかし本当にそういう考え方でいいのであろうか。
 むしろ人間の会話があって、多くの人間がその五感に訴える喜怒哀楽を大きく感じた時代こそ、別の表現を借りれば、人間がその実在感を最も深く感じる状態こそが、人間にとって、浅薄な、幸せというような表現を超えた最高の瞬間ではないであろうか。何もない刺激もない、平穏な時代は、ヘーゲルが言うように、本の中の白紙のページのようなものといえる。
 別の観点からすると、また、真に平等を実現しようとすると、アグレッシブな野心を持つ人間を否定することとなる。なぜならば、社会を変革しようとする人間は、短期的には平等を打ち壊す人間であるケースが多いからである。
 エジソンが蒸気機関を発明し、車が発明されたことで、それを享受できる人間とできない人間では、その平等は著しく阻害をされた。野心を持つ人間は自己のより大きな権力や栄達を目指すものである。結果として、それは多くの人間の犠牲の上に成り立つことがある。しかしそうした刺激的社会こそ、人間の実在感を高め、人間のテンションを高めるものではないであろうか。
 次に、豊かさを人間が求めるという人がいる。しかしその豊かさとはなんであろうか。今日のような社会では豊かさの概念は多様である。ある人間にとって、静かな田園地帯で生活することが豊かであれば、ある人間にとっては、真夜中に自分部屋でロック音楽を聴くことが快感であることもある。人間の趣味も、喜びも、楽しみも、千差万別である。
 かつて人間が同じような環境で同じような知識で同じような生活をしていた時代であれば、画一的な豊かさや幸せが存在したであろう。しかし、こんにちでは状況は多種多様になっている。
こうした中で、いよいよ人権の平等とはどのようなものか曖昧となる。
 繰り返すが日本における憲法においてこうしたことが指摘されている。この最低限の文化的生活というものが普遍性を持つとすれば、人間が生物として生きていく最低限の生活。つまり衣食住の確保ということであろう。
 なぜならば、それ以上の文化的水準となると、それはその地域の利便性や、その社会の文化の高さによって異なるからである。
例えば、江戸時代の日本にとって、そこに住む庶民の生活において最低の文化的生活というのは、我々の今日のそれとは異なるであろう。室町時代にいたっては、その基本的人権の水準をどう確定するかも困難であろう。
 今日のインターネット社会において、その文化的な最低限の生活というものについての、一般的認識というものは困難であろう。少なくとも、人権がそうした物質的なことにこだわる限りにおいて、その普遍性を明快にすることは難しい。
 一言付け加えるならば、この概念が、一定の物質的利益の享受と関係があるとすれば、人口が地球上でほかの生態系の生物と比べて異常に膨張している人類が、さらに以上にその生活の質をそれに伴う熱量を増幅している状況を考えると、人類の生活の発展と、人口の向上を考えると、人権を守り維持するためには、あくなき人類の、地球を人類のための星に改造することと、地球以外の新しいフロンテアを、月やほかの惑星に早急に獲得をしていく必要があるであろうし、そこにある新しい物質資源を使って、新しい形態の文化、知的興奮を人間に与える文化を創造する必要があろう。
 そのためにはいずれにしても、科学とテクノロジーの無限大の大発展が前提となる。
 つまり人権を守る行為とは、すでに貧困を撲滅するために科学が大きく寄与したように、人間の新しいフロンテアの獲得とそこにおける新しい物質文明の創造に科学が一層貢献をすることが必要となる。そして常に比較の中で貧困は生まれその解消のために科学具術が進歩し、再び不平等が生まれ、という繰り返しが永遠に続く。
 さて、この人権が、物質的側面と関係がなく、精神的側面だけとの関係で、例えば精神の自由であるとか、行動の自由であるとかという側面から議論されるべきものとしても、それが全く物質文明と関係を持たないということは考えられない。
 衣食足りて礼節を知るということである。
ここでわれわれは、平等の実現がある瞬間において、ある時代において、個人レベルで行われないときには、それを時間的要素も加味した遺伝子レベルや、空間的要素から行くと集団レベルで考えることが妥当ではないかということになる。
 ただし、人間が一定のテンションを持って生きる環境を作ることが、平等社会の前提であるとすると、可能性はある。つまり国家が、気概を持ってそのテンションをすべての国民に与えるということである。
 気概を持つために、一定の物質的繁栄があるとすることが、衣食住足って礼節を知るという意味であろう。
 ここで、おおむね感情のレベルの比較の原理において、その比較による貧富の差などが、フランス革命のときのように強い怒りの感情を伴って行為にいたるほどのレベルに達することなく、違和感を持って見られない中庸な社会であること、を前提にして、その後は、いかに精神的テンション、充実感を獲得し維持するかが社会の重要問題となる。
 かつてギリシャの政治家ペリクレスが、アテナイにおいて、自分の家や家族のこととアテナイの政治の繁栄のことを同じレベルの一体感をもって、心配し喜び、悲しまないアテナイの市民は一人もいないと語った。
 そして、もし、そうではないアテナイの人間がいたとしたならば、それアテナイの市民に値しないものであると断言した。
 今日の民主主義の淵源にあるアテナイにおいて、その民主主義の制度的側面である、多数決原理と、同じ以上にこうした国家に対する市民の一体感が謳われていたことは、きわめて示唆的である。それは、国家が大文字の個人であるとしたプラトンの発想とも共通するが、人間のテンションとの関係においてきわめて重要な発言である。
 そこで、いかにして人間のテンションを挙げるかということについて分析を行いたい。
 そのテンションを揚げるために求められるものは人間観であり、世界観であり、世界観と密接に関連する市場概念である。勿論、芸術、美術といった様々なレベルにおいて、人間のテンションを揚げるものは発生する。広い意味での世界観の中に含まれる、宗教も、そうした意味を兼ね備えたものであるし、ホメーロスのような芸術は、アレキサンダー大王をはじめ多くの英雄たちに一つの人間観を与え、情熱を与えたといえる。アレキサンダー大王が、ペルシャ遠征において常に枕としたのがホメーロスであったということは有名である。
 人間のテンションを高めるものとして、こうした普遍的作品や舞台装置と同時に、その国民といった、自分が一体感を持つ一定のグループの存在は極めて重要である。

ここに中学時代のテキストが入ります。
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