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荒野の叫び 2011年01月の記事

貨幣の物神性と、人間の啓蒙との関係

2011.01.21

 人間において、かつての動物に存在した不可思議な能力が失われた。家畜化する人間という議論がドイツを中心に喧伝されたことがあるが、この議論が重要である。
 つまり、野生の馬は尻尾が上に向かって立っているが。家畜化された馬は垂れ下がっているといわれる。事実がそうであるかどうかというよりは、その警句の意味することが重要である。
野性味を失っている家畜化された動物は厳しい野生の世界で生き抜くことが難しいということがある。
 つまり野生であれば必要であるはずの、常識外れた嗅覚や、視力や、聴覚の力というセンサー能力と、高い運動能力が、果たして家畜化された動物にあるのか。
 ネズミは沈没する船からその前に予知して脱出するといわれる。地震の津波に対して、人間以外の野生動物はその波長を察知して逃げるという。人間は大きな被害を受けるが、野生動物はそうした被害が人間に比べてはるかに少ないという。
 動物の予知能力は、研ぎ澄まされた感性というものであろう。
 松下幸之助氏が、鋭敏な感覚を持った経営者は工場の前に立ってその工場の機械の響きからその工場の利益が上がっているかを知ることができるといったが、武道の名人の感覚も含め、こうした野生の勘に近いものがあるであろう。
 しかしながら管理されて安定した環境の中では、あまり必要とされないこうした能力は退化するという指摘がある。
 人間が古代はこうした感性と感覚を持っていたのだが、都市化が進み社会の中での人間保護の環境が進んできて、すなわち家畜化されたことによって、人間の野生感覚が退化してきた。
 そしてこうした感覚の退化に伴って、現在の科学では計量できないような感覚的なものの否定と、論理至上主義と理性至上主義が生まれてきた。
 人間が科学的発想を明解にし、怪しげな感性による直感を否定することは、家畜化する人間にとっての必然であった。
 そうした近代的精神の上に今日の考え方が成立している。
 繰り返すが、人間がその価値的判断は別として研ぎ澄まされた野性的感性を人間社会の高度化と都市化というある種の人間の家畜化によって、退化させることと対比するようにして、近代的精神が広範に広がった。
 そしてその近代的精神は、貨幣の物神性と深い関係を有するものである。貨幣の物神性は、すべてを貨幣の価値で推し量ろうとする志向性を持つ。食べ物や、着るものに値段が付くだけでなく、景色や、水のおいしさといったものにまで価格が付く。
 かつて必要性がなく値段がつかなかったすべてについて価格をつけようとする。今価格がついていないものは、人間の恋愛などであろう。
 そしてすべての現象について値段をつけようとする発想は、物の持つ貨幣で推し量れない価値を否定することとなる。
 例えば、ここにマグロの値段が10万円とする。それはそのマグロの人間にとっての価値である。もっと言うとそのマグロを食材として活用する食文化も国民においての価値である。
 しかし、そのマグロの命の尊さや、そのマグロを人工的に作ることができないことを考えると、単にそのマグロの価値を10万円という価格で示すということはその価値の一面性にすぎない。
 また、そのマグロの血液などが将来人間の健康を守る何らかの効果を持つ事がわかるとその価値はさらに大きく上昇するであろう。
 つまり、貨幣がすべてのものの世界を支配しようとしてすべてのものに値段がつけられようとしているが、そのことはその者の持つ無限の可能性や能力と一部のみを現状において評価することである。
 しかしこの貨幣の物神性で重要なことは、本来その役割は、物と物との交換を効率よく行うということと、そうした労働の成果を顕在化することなく保持できるということにあった。それが、むしろ物の価値の司祭として現れ、貨幣が経済の補完的要素から、それ自体が主体的な主役となってきたことに大きな問題が生まれる。
 貨幣が物の潜在的、デモーニッシュな側面を否定し去ったことによって、人間の家畜化と同じように、物の家畜化が進んだとも比喩的に言えるのである。

 貨幣経済の進展は、結果として、物をそうした物としか認識できない家畜化された人間をより補強するものとなった。

久々に成人式に出席してみた

2011.01.11

 昨年、私の長女が20歳を迎えた。そして今年の成人式に私は娘の成人を祝う意味からも参加した。
 成人式に参加して、驚いたことには、ほとんどの成人を迎えた男子も女子も、式の間中お互いにしゃべくりあっていて、まじめに行政の長のあいさつなどを聞いていないということであった。
 少なくとも大田区主催の成人式であれば、大田区長のお祝いの言葉ぐらいは、短い時間であるので、静粛に聞いていればいいものだが、来賓席に座っている私ですら、目の前で祝辞を述べている区長の声よりも、後ろから聞こえてくる何千人のおしゃべりによる雑踏の響きのほうがはるかに大きく聞こえた。式典終了後に区長に聞いたところ、こうした無秩序での式典は毎年のことであるとのことであり、半ばあきらめているようでもあった。
 おそらく、韓国やアメリカで同じような会合があれば、青年男女はもっと真面目に話を聞くであろう。いや、世界のどこの国にあっても、これほどの無秩序な式典はないであろう。
 こうした真剣に聞くべき時に真剣になれない若者は、ほかの場面においても、真剣に本人がなったつもりでも、本当の真剣さとそれに伴う火事場の馬鹿力や、アイデアのひらめきといったものは出てこないのではないかと考えた。ここ戦後骨抜きにされたという日本の現状を見るような気がした。
 あわせて私の師匠である松下幸之助松下政経塾創設者が、真剣であれば、必ず道は開けてくるといっていたのが思い起こされた。
しかし、こうした青年における、無秩序な成人式や、真剣さの欠如といったものが、彼らの責任であろうかというと、そうではないということに気が付く。
 テレビのスイッチを回せば、下品な笑いや、真剣なことをネタにしての笑いなど、日々満載の状態である。
 真剣であることが、馬鹿げたことであるかのような宣伝すら、下品なお笑い番組などではしているといってもいいであろう。
さらに、本来は1月15日の成人式を、連休を作ることを優先するという発想のもと、1月10日にしたり、遅くして1月16日にしたりして、3連休とするハッピーホリデイの発想が、成人式の権威を失墜させているとすらいえる。
 本来その祝日の持つ意義が忘れ去られ、単純な連休の帳尻合わせに使われていることこそ、成人式を迎える成人に対する冒涜ではないであろうか。
 こうした権威を復活させ、真剣さを社会全体が取り戻すことが、経済の上からも、文化の上からも、今必要ではないかと、娘の成人式に出席をして考えた。

東京都連会長代行として、元日菅総理に直言。

2011.01.04

 昨年、民主党東京都連会長代行を拝命し、併せて都連の統一地方選対策総括のお役目をいただいた。そこで、新年において最も重要な事は、4月に行われる東京都知事選挙への対応である。もうそこまで迫ってきた都知事選を民主党として、どのように戦うかということが問われているのである。
 昨夏の都議会議員選挙で、都議会民主党は都政の第一党となった。しかしながら、過半数を制するには至っていない。また、現在の知事与党は自民党・公明党であるが、両党合わせても過半数に満たない。国政では衆参ねじれ国会であるが、都政でも知事と議会との関係はねじれ状況で、なかなか前に向かって動かない現状である。そこでこの状況を打開するために私は、この都知事選挙を通して、既に第一党の地位にある民主党が知事与党となることがなによりも肝心であると考える。そして、新しい知事と協力して、都政を前進させることこそが、都民の期待に応えることにほかならないと考えている。
 民主党が独自候補を擁立し、勝利すればねじれ状況は解決できるわけだが、現下の情勢において、強い候補が民主党の推薦候補として名乗りを上げるかについては、極めて微妙な状況である。もちろんこうした勝てる候補者が、民主党推薦で出馬することを目指しながらも、我々は、現実的対応をするべきと考える。
 それは、東京都議会において、民主党が第一党である事実を、都政運営において、明快に権力との関係において確立することである。
 新しい知事がどのような枠組みで生まれるかについては、様々な可能性がある。重要な事は知事与党第一党に民主党がなることであって、そのときに、都政運営において民主党の意見は強く反映をされるのである。知事を完全な民主党推薦候補で掌握することは、議会の第一党と行政のトップを両方民主党で抑えることとなり完勝である。しかし、知事が民主党とは関係のない候補者で確定するよりは、あえて、ほかの政党との相乗りであっても、結果として、知事与党第一党を民主党が獲得する事は、事実上都政運営に対して現実的に最大の意義を持つと考える。
 私は、元日の日に、菅直人総理大臣に、この事を是非とも、提言するべく公邸に赴き、議論をした。第一に、都知事選挙については、東京の行政を考えることであるから、都議会民主党の幹事長と、綿密なすり合わせをすること。第二に、そうした中で、冷徹な分析をして、政治的により強い勝利がどこにあるかということの分析をすることを既に述べたことを踏まえて進言した。
 菅総理は、強い候補者というものは、多くの東京都民を、巻き込んでいくものと考えている。それは正論であり、目指すべき理想的ベストな状況であろう。しかし、私は東京都連会長代行として、都議会における既にある優位を活かすこと、昨年の都議選勝利を維持し、その上に積み上げていく発想で、まずは負けない戦略を立てることが肝要だと考える。
 政治というものは常にベストな選択が正しいとは限らない。戦略上ベターに考えることをあえて新年に記しておきたい。

 また、今、鳩山由紀夫前総理と、衛藤征士郎衆院副議長を中心に、衆議院と参議院の、対等合併を模索する一院制を目指す議連、「衆参対等統合一院制国会実現議連」が稼働し始めている。
 先般、会長の衛藤副議長と話をして、私はその事務局長代理を仰せつかった。これだけ世界の経済の展開や様々な意思決定にスピードが求められる時代に、ねじれ国会はもとより、結論を出すことの大幅な時間を必要とする議会は極めて国益を失する可能性がある。こうした中において、一院制を実現する事もまた国家の大きな課題である。
 これを実現するには、当然ながら憲法改正が必要となる。これもまた今年の私の抱負の一つとして目指していくことを宣言したい。

平成23年 年頭所感

2011.01.01

 我々の国家が、破綻に向かっているということを言う人がいる。我々の国家がその最盛期の繁栄を終えたという人間がいる。今日の政府部内においても、今日の日本は今後下り坂であるから、よりゆっくりとした下降線をたどるように努力することが政府の役割だと公言する人間もいるという。
 とんでもない話であると考える。
 もとより人間はその社会と無縁で生活を送ることはできない。人間は誰しも齢を取る。若い時代はつかの間であり、やがて老いていく。私自身も齢50歳を超えた今、若い時の情熱をそのまま維持しているとは思えない。しかし、若く活力の満ち満ちた時代に生きていれば、その社会に生きている人間は若さを終生持ち続けられるのではないだろうか。
 明治の時代においても、社会の矛盾は多く存在した。しかし時代が今よりも若かったので、多くの人間は時代の若さの中で新鮮な希望や怒りを感じながら生き続けられたのではないであろうか。
 例えば、ベートーベンの、バイオリンソナタの9番を聞いて文豪トルストイが霊感を感じて、小説を書いたことも同じような現象である。社会全体がこの人間に対して霊感を与えるくらいに高揚しているならば、その社会に生きている人間は充実した人生を送れるに違いない。
 また、ドイツの詩聖ゲーテが「人間の最大の持前は驚きである」と戯曲ファウストの中でも語っている。
 畢竟、その社会がどれほどの衣食住における幸せを提供できるかということと、その社会の人に夢を与えることができるかがその社会の意義になるのではないであろうか。
 我々が、閉塞感溢れる日本社会に生きていることは事実であるが、飢餓で命を失う日本人はほとんどいないであろう。現代は、一般的な社会現象として飢餓が蔓延している状況ではない。
 かつて心理学者のマズローは人間の5段階欲求説というものを説いた。生存の欲求に始まって、帰属の欲求などがあり、最後に自己実現の欲求にいたる欲求の高度化を説いたのである。
 国家においてもこうした5段階に近い欲求があるのではないか。冒頭において必要なものは、生存の欲求であり、その国民に衣食住の充足を図ることである。しかし、やがてその国家の自己実現を目指すようになる。中国などが、自国の中の国民の衣食住を充足させたうえで、今日世界に対して覇権的行動に明らかに出ようとしていることは明白であり、これもこうしたマズローの5段階説を国家に援用するとわかりやすいことであろう。
 さて我々の国家について我々は何を命題として考えて行動するかということである。
 すでに私は今日の日本の繁栄が失われていることの理由として、アジア最大の経済的、情報的、金融的拠点が日本からシンガポールなどに移って行ったことを述べてきた。
 それを取り戻すためには、利便性において東京がほかのアジアの都市との競争に勝たねばならないということは明白である。その利便性は単に24時間ハブ空港を有しているというような単純なことではない。例えば、出入国管理法においても、シンガポールは多国籍企業のトップエクゼクティブが移住するときには、その子供、両親、さらにメイドまでほぼ無条件で入国を認めるという。我が国の場合は、その子供までは了解されるが、その両親を伴って移住することは難しく現在検討中、メイドを伴って移住するなどということは不可能である。
 しかし、そのことは世界多国籍企業のトップが日本を拠点とすることに大きな障害になって居る。
 世界中の国家は、税制やこうした人の出入りでもダブルスタンダードをとって、経済の実益を上げるようにしているのである。きわめてしたたかであり、日本があまりにナイーブなことをしていると国際競争に勝つことはできない。
 しかし、こうした利便性の問題以上に日本人のテンションが低いことが問題であることを私はたびたび指摘してきた。
欧米の記者は、日本人の青年が自信を世界中で最も失っている青年であることを知っている。野心を失っている人間であることを知っている。そして少子化が社会の活力を失っているのではないかという質問に対して、日本以上に少子化が進んでいる韓国の経済については心配していない、日本の経済が心配であるという。その理由として彼らは、日本の青年に「アニマル・マインド」が失われていることを指摘する。
 私は、その日本人の自信とアニマルマインドを取り戻すために多くの人との議論を通して二つのこと重要性を確認した。
一つは、毅然とした外交の必要性である。
 人間は、その自信を国家の自信との呼応の中でとらえることが多い。自信のある国家に生きていることが自信を持つ人間につながるということである。少なくとも、国民大衆の心理において、このことはかつてプラトンが指摘したとおりである。
 確かにわが国家の外交において、国民に自信を持たせるような毅然とした自信に満ちた行為が戦後の長い間に希薄であったことは間違いがない。
 次に必要なことは競争である。それも減点主義による競争ではなく、得点主義における競争である。
 アメリカの会社などでは、履歴書に賞罰なしと書いてあると大体失格になるという。むしろどのような失敗をしてきたのかというチャレンジ精神と、その結果何を学んできたかが問われるのである。賞罰なしは何も行動をしてこなかったというマイナスの評価しか与えられないのである。こうした積極的競争の中で自信が育まれるのであろう。
 こうした言説を踏まえ、新年において私は二つのことを国家、一つは毅然たる外交と教育の改革である。もう一つは、世界が一つの世界にまとまろうとしている現状からの結論である。
 今日の世界が、ちょうど紀元前の中国にかつて100あった国が戦国7国にまとめられ、それをさらに秦の始皇帝が、紀元前221年に統一した時のような状況に似ていると見る。始皇帝はそれまでばらばらであった度量衡を統一した。今日でいえばそれは各分野におけるグローバルスタンダードの統一である。
 そして国家の役割は如何にして、その世界共通基準に自国の基準を適応させるかということである。これは大変なメリットがある。アメリカ人は世界共通語である英語を生まれながらにしてしゃべる。その経済的意味は大きい。
 もし、平均的日本人が英語を学習するのに500万円を掛けているとするならば、アメリカ人は生まれながらにして500万円を持っているようなものである。
 国益とはこうしたグローバルスタンダードを自国にどのように有利にするかという一点にある。
 そのためには文化を海外に輸出するなどの多角的戦略が必要である。
 少なくともこうした具体的行動を日本がとり、時にこの国家と国民の自信は活性化するであろう。
 そして、拉致の問題についても記しておきたい。この問題が、国家の主権と人権にかかわることは当然である。12月に総理が臨席した被害者家族会との懇談に私も議連事務局長として出席をした。
 そこで、菅総理は有事の際には、国家として拉致被害者救出の必要性にまで踏み込んで言及された。大胆な発言であると感じた。問題は政治は現実の業である。そのための自衛隊法改正などを総理主導で早期に行うかどうかが問われるのである。
 その後、救う会の西岡さんからの要望もあり、年明けには、防衛大臣とこうしたことについての打ち合わせの機会を持とうと考えている。
 また12月14日には総理とともに硫黄島に赴き、慰霊祭に参加した。その時、硫黄島をはじめ国内外の英霊のご遺骨収容が終わらなければ日本の戦後は終わらないと言った。アメリカ軍は戦後一年もしないうちにアメリカ兵の遺骨をすべて収容したという。日本はこのままのペースで行くと三百年かかるとまでいわれていた。それを総理のリーダーシップのもとに、短期間で成果を上げつつあることは評価したい。しかし未だ滑走路の下に多くのご遺骨が埋もれているとの指摘がある。その収容は、問答無用に必要であろう。
 こうしたことひとつひとつを地道に行うことによって、かつてイギリスの保守主義者のバークが言ったように、「現在のわれわれと過去のわれわれの先祖と未来の我々の子孫が共同作業で行う政治」が実現され、政治そのものの風格と、活力が湧いてくるのだと考える。

ここに中学時代のテキストが入ります。
ここに高校時代のテキストが入ります。
ここに大学時代のテキストが入ります。
ここに松下政経塾時代のテキストが入ります。