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荒野の叫び 2011年05月の記事

政治家の役割と展望

2011.05.30

 政治家の役割はどうなっているのかを考える。古来政治家の役割は、危機における指揮者としての能力があげられる。
 例えば、川における氾濫を鎮める役割などである。
 こうした治水などについては、多くの人数が共同作業をする上での、効率の良い作業分担などを決める才能がある。つまり共同体が生まれるときにその指導者が生まれる。そして同時にその指示に共同体の全員が従うということから、権威というもの、強制力というものが求められる。
 さらに、共同体が共通の目標に向かって構成員の情熱と体力を使う時にそこの共同体の一体感というものが必要になる。一体感が強ければ、共同作業はより効率的に、展開する。
 その共通感情は、その共同体の義務の観念、責任の観念を生む。
 こうした素朴な共同体のイメージを考えるときに、指導者は、その共同体において、日々の生活を安定的に送らせるような努力をする必要がある。つまりその共同体にとって、全体の利益にプラスになることを実行し、全体のマイナスとなるような事象をより軽減するということが指導者に求められる資質である。
 二つ目に、その共同体がより一体感を共有するように働き指導するということが重要である。そのためには共通の祭りや祭典、文学、歴史を尊ぶ行為などが求められる。集団における名誉の感情はこうした共通意識を高揚するために重要である。
 そして、かつて多くの共同体にはすべての情報やすべての行動を統括するリーダーが存在した。同時に彼らはほとんどの場合、神を祀るときの中心者でもあった。共通の神を祀ることと、共通の言語を持つ事と、共通の生活習慣を持つ事が、共同体意識を持つことにつながり、その共同体意識の強さこそ、義務の観念組織に対する奉仕の観念に貢献するものであるからだ。つまり彼は、その共同体の実務上の作業におけるリーダーであるだけでなく、その共同体の共通の価値観を醸成する行事や宗教における主催者であった。
 つまり、この共有感情は、日常の実務的な指導者の仕事と異なって、非日常的な、その式の目標、夢、組織の感情を喚起することによって高められるものである。ここに政治上の指導者は、単なる実務家としてのリーダーではなく、それにプラスして精神的部分における夢と目標を与えるリーダーとなることが日常の実務的指導者としての権威を高めるために、またその共同体の義務的感情を醸成するうえで必要な一体感を高めるうえでも求められたのである。
 また、共同体が大きくなって、より大きな効率を求めるときに、複数の共同体が統合される場合がある。また、ある共同体が、自然災害等によって、従来の地域で生活ができなくなり、ほかの共同体の空間に進行する場合がある。その時には、共同体同士の争いも含めての戦争が生じる。
 こうした非日常的、ほかの共同体との戦いは、結果としてその共同体の共通意識をより高めることに有効なものとなった。
 しかし、すでに組織全体にとってのメリットを実務上追求することが、共同体のリーダーの資質と書いたが、この組織にとってのメリットが、素朴な時代には、事実上その組織の構成員全員にとってのメリットであった時代が続いた。
 しかし、今日、個人の価値観が多様化し、そして個人の生活における立ち位置が、職業の多様化において、相互に矛盾する時代を迎えている。
 かつては、同じ共同体において、自然災害に対する行動にしても、ほかの共同体に対する戦いにおいても、単純にお互いが利益を共有していた。
 しかし今日において、生産者と消費者との貿易輸入自由化に対する利害は真っ向から対立する。消費者は、関税をかけない輸入を望み、生産者はほかの国家からの輸入に対しては関税をかけることを主張する。
 集団にとって政治家は、共通の利害を主張し、天災と、場合によってはほかの国家と勇敢に戦いすべての国民から喝采を浴びる存在から、一転して、国内の利害調整を行う存在となってきている。
 また、価値観の多様化によって、政治家が、一つの国家目標を掲げて、国民を引っ張っていく時代から、そうした実務的でない政治家の夢やロマンを語ることが国民によって忌避される時代に入りつつある。
 かつての天災に対して共同体の指導者が戦ったのと同じ視点でいえば、今日における政治家の最大の共同体に対する実務的行為は、環境破壊に対する行動であり、人口爆発をどう乗り越えるかというようなことであろう。ほかの、年金の問題、高齢化の問題、それに伴う医療費の増大の課題、新しい産業の問題など、国民の中での利害がグループごとに対立をし、解決が複雑な問題が多数存在する。
 また、国家そのもののダイナミズムが歴史上かつてなかったほど失われている。そもそも、歴史上、国家というものはあたかも一つの生物のようにその生まれて滅びる間に興亡の歴史があった。
 いかなる国家も常に変化をし続けてきた。アメリカもロシアも、中国も、中近東もその歴史は変化と拡大などの歴史である。しかし今日の世界においては、こうした国境の変化というものはあまり行われないようになっている。しかし実はこの国境の変化の中に生命としての国家のダイナミズムは存在した。
 国境が変化をしない国家というものは、それ自体が活火山ではなく死火山のようなものである。そこに住む国民は、自分の国家に対して、国家が動的な存在である時ほどには、帰属意識を持たないものである。それは、動いている車に乗っているときと静止している車に乗っている時では、その乗務員の一体感が違うことと同じである。
 どちらにしてもこうした事象、つまり、全員のメリットが多様化し不明確となり、また国家のダイナミックな活動が抑制され、さらに国家を超えた経済活動の進展、国家を超えた情報の流通の中で、その国家の政治家を単なる行政における実務家として、本来の政治家が持っていた大胆さや、ロマンから矮小化するものである。
 かつて古代ローマにおいて、共和制からアウグストスの帝政に移行し、やがて、国家が守りの時代に入ると、その大胆さとダイナミズムは失われていった。ローマの平和といわれたパックスロマーナの時代、やがて国家に対してのローマ市民が持つ、共通感情が失われ始めた。
 国家は空気のような当たり前の存在となった。
 政治家は徹底的に実務者となり始めた。そうした中で、新しい動的存在として国家のダイナミズムに代わって、宗教のダイナミズムが普遍性の中で生まれてきた。キリスト教である。そしてこのキリスト教は、コンスタンチヌス帝のミラノ勅令を経て、事実上ローマの国教となる。この過程であのユスチニアヌス大帝は、戦いに強かったにもかかわらず、キリスト教に対して批判的であったがゆえに、その軍隊が彼の指示に対して勇敢に戦うことをせずについに敗北をする。
 私見では、ヨーロッパ世界におけるキリスト教の支配はあの時の戦いに始まると考える。
今日の世界において、こうした国家のダイナミズムが薄れ、その統合されている意味が特に先進国において、従来の歴史的立ち位置と変わっていることを考えると、こうした国家の中では、新しい宗教や、新しいイデオロギーが生まれ、それが人間の集団のダイナミズムの発散の場所となるであろう。
 強い強烈な危機、もしくは敵が現れることこそ、こうした多様な価値観や立ち位置を乗り越えて共同体の意識を一本化する条件となろう。その意味では、今日の人口爆発に伴う環境破壊は、そうした事象を乗り越えるうえでの、新しいファナチックな思想を醸成する可能性がある。
 こうした状況の中で今の政治家は行動する。考えれば、政治家は行政の実務家として期待されており、こうした思想なり行動なり新宗教は、政治家とは異なる新しい職種で行われるかもしれない。
もしくは本来政治家が持っていた、集団を率いて神に仕える祭主としての立場を強く持ったグループなり指導者によって行われるのであろうか。

一院制がなぜ必要か

2011.05.09

 今日の政治状況における問題点は、まず、意思決定がスピード感を持ってなされないことにある。
 平時において、つまりねじれという問題がない状況においても、衆議院と参議院とで事実上ほとんどの場合同じような質問が二回行われる。少なくとも、アメリカやイギリスなどの二院制の国家において、日本のように同じ法律をその両院で二回討議するということはない。それはそれぞれの院の扱う内容が異なるからである。日本のみが同じ権能を同じ法律に対して扱うという二重の手続きを行っているのである。
 これはつまり、法律を作るのに二倍の時間がかかるということを意味している。そして、我が国のように、各大臣が委員会に参加することを常態とする院の性格上、国政の前進に対して大きな時間的制約を政治家に対して課すこととなる。これでは政治主導も絵に描いた餅となるであろう。
 特に、昨今のように時代の変化が急速であり、ある新しい社会状況や経済状況に対して早期に意思決定を行う必要があるときに、こうした二院制において十分な時間をかけて審議をすることのメリットよりも、その時間が掛かることによるデメリットの方がはるかに大きい。
 新しい社会状況や国際社会の危機に対して早い段階でなされたならば、有効だったはずの決定であっても、時宜を得ずして行われた時には意味を持たなくなることがある。
 また国際社会の無慈悲な競争の中で、わずか数か月の時間の差で早く行動した方が主導権を握れるようなときにも、そのチャンスをみすみす逃すことにもつながるのである。例えば、二国間協定において素早い対応が求められる時に、関税の軽減などで後れを取るとき、そのしわ寄せは民間企業に多大な影響を及ぼすことが考えられる。
 これらはわが国の二院制に宿命的に付きまとう問題点として、意思決定にスピード感が欠けることを嘆いたものだが、現状はもっと深刻な事態に直面している。
 すなわち、衆議院と参議院において「ねじれ」と言われるそれぞれの院における多数派が異なる現下のような状況では、衆議院の優先権が認められている案件以外は、ほとんど成立の見通しが立たなくなる。これは時間が掛かるどころか法案が通らないのだからもうどうにもならない。
 この場合のマスメディアの見方は、それぞれの政党が良識を働かせて、国民生活を守るために、一致結束するに違いないという楽観的なものである。
 しかし、実際は多くの解決するべき法案が、宙に浮いたまま党利党略でまとまらないことの方が多い。
 その場合、こうした非常識な事態を喜ぶのは日本とライバル関係にある外国の機関である。
 先日、私は小さな後援会の会合を持った。その時にある人が言っていたことが印象的であった。彼は、その意思決定がベターですらなく、どちらかといえば、悪い方に即していたとしても、国民が望んでいることは、明快な意思決定をする国家の強さを期待しているのだと心情を語った。
 つまり、自分の国家が良いにしろ、結果として悪いにしろ、意思決定ができないということが最も国民としてもどかしいというのである。
 私は、一見この暴論に近い発言の中に一つの真実を感じた。
つまり、国民は国家の姿に一つの人格的イメージを抱いている。そのイメージが、自ら意思決定できない実に頼りないイメージであることは、その国家に住んでいる国民である自分にとって自信を喪失させる出来事である。
 なぜならば、彼はその国家の一員であるからだ。国家に自信があれば、彼は自信を持つであろう。国家が自信を失えば、彼は彼一人国家と全く別に自信を維持しえないであろう。
 例えば、自分の帰属する地方自治体が、自治体運営に失敗して禁治産者的自治体となったとしたらば、その地方自治体の一員である住民は自分に自信を持ちえるであろうか、せいぜい無関心にやり過ごすか、なんとかその不名誉な地位から這い上がろうとするかであろう。
 そして、その地方自治体が健全な行政運営を可能にした時に初めて彼は自分に対して満足をするであろう。
 なぜならば、彼はその地方自治体を構成する一人であるからだ。同じように、国家が意思決定を迅速にできないということは、意思決定をするのに愚鈍な、国家の一員である自分を感じて、そうした自分は否定したいがゆえに、国家に対してもっと速やかな明快な意思決定をすることを望むという彼の発言は理解できた。
 しかし、国家行政の法律的意思決定を二度議論する二院制には、小選挙区中心の選挙制度下での二大政党制と相まって、こうしたねじれという問題を恒常的に発生させる可能性がある。
 勿論、同じことを慎重なうえにも慎重に二度議論するという手法は、昔のように時間が緩慢に過ぎていく時代においては、短兵急に結論を急ぐよりもより優れていた可能性もあった。
 もっとも、それも同じことを二度聞くのではなく、全く違った観点からさらに熟議がなされた時のことであるが、しかしすでに述べたように、我々は、この二院制は機能の部分において、メリットよりもデメリットの方がはるかに大きいことを知っている。
 もしも二院制を残すならば、アメリカやイギリスのように、その権能と扱うべき法律の内容などを全く変えて国政の中身を仕分けするべきであろう。
 例えば、外交は衆議院が行う。年金問題は参議院が行うといった具合に扱う内容を決めるべきであろう。
 しかし、今日のようにすべての課題が実は無関係ではなく、どこかで絡み合っているとすれば、むしろ一院制を模索することが政治を活性化し、意思決定を迅速にする唯一の方法であろう。
 そこで、衛藤征士郎衆院副議長や、鳩山由紀夫前総理を中心に超党派で賛同者の輪を広げている衆議院と参議院を対等合併し一院制の成立を期すという議論に期待が高まることとなる。
 この試案においては、一院制を実現することを至上命題とする。したがって、それは、衆議院を廃止するのでもなく、参議院を廃止するのでもなく、両院を同時に対等に合併するということにある。
 その詳しい内容はまた別の機会に論じたいと思うが、私がここで議論を進めたいことは、そうした一院制を実現するためにも、憲法の改正が不可避であるということである。なぜならば、今日の二院制は憲法に明記されていることだからである。

 さて、日本国憲法において、憲法改正には、次の手続きによらなくてはならない。まず、国会の3分の2の発議が必要である。そこで新憲法が発議される。そしてさらに国民投票によって新憲法の是非が決まる。
 重要なことは最終的に憲法を改正するかどうかは、国民投票によるのである。
 このことは、ほかの法律の扱いと全く違う。ほかの法律は国会において議決されて施行される。しかし憲法はあくまでも国民投票によって議決され施行されるのである。国会はあくまでも発議をするのみである。
 逆に、国民が現在の憲法を時代遅れで現実的でないとして、新しい憲法を模索したくても、国会の3分の2の議員による発議がなければ、憲法を変えることはできないのである。我々は、そこで3分の2という高いハードルは必ずしも必要ではないと考える。
 市長のリコールなどの住民投票でも、住民の3分の1の署名があれば、そのリコールは発議されて住民投票にかかるという。同じ理由で考えれば、この3分の2は異常である。占領下の日本と、事実上統治したアメリカが、自国の憲法改正に必要な要件を議員の3分の2としたことがこの条文の理由であろう。
 しかし現実には、アメリカは、戦後何回も憲法を変更している。ほかの国家においては、イギリスでもフランスでもドイツでも半分が発議権の理由となる。
 我々は、あえて3分の2に固守するべきではないと考える。事実法律は2分の1で成立をしている。
 日本はこれだけ社会が変化し、この二院制の問題についてはほとんどの議論する有権者が理解を示すなかでも、変えられる見通しがいまだ立っていない。そして政治が混迷しリーダーシップを失っていく。
 そこで、少なくとも、国会で成立をしたこうした議論を進めるうえでの憲法調査会を参議院で作ること、そしてすでに憲法審査会の設置が法律で認められている衆議院ではその委員を確定し動き始めることを我々は、衆議院、参議院両院の議長に申し入れることを決めたのである。
 マスコミにおいてはあまり報道されなかったが、4月28日に、我々超党派の一院制実現議連は、江藤会長、鳩山副会長をはじめとしてこうした要請文を携えて、横路衆議院議長、西岡参議院議長を訪問した。
 横路議長は、参議院において審査会が発足した段階で、衆議院でも委員を選定すると語った。それが法律が決まった時の経緯であるという。しかし私は、その経緯は、一部の政治家のみが知る経緯であり、そのことを国民は知らない。むしろ院の不作為で設置されたにもかかわらず、委員が選定されていないことの方が問題だと主張した。
 西岡議長は極めてこの問題については理解があった。彼自身がこの議連の顧問でもあるからである。
 憲法改正の必要性についても、議長は深く理解をしているようであった。
 繰り返すが、今日の政治のリーダーシップのなさや不決断は、政治家の質の問題というよりは、かつては自民党という絶対的多数党の存在の中で表面化してこなかった二院制のマイナス面が政権交代によってむしろ表面化したが故と考える。
 また、そうした二院制のマイナス面の中で、政治が通常の国家よりも交通整理を必要とし、結果として、政治屋の出現と、政治屋的マスメディアの出現を招来したのであろう。
 この一院制の実現は、憲法改正を伴うが、国益上実現をするべき大きな課題であり、私という一政治家の人生にとっても、その実現は大きな政治目標となることであろう。

ここに中学時代のテキストが入ります。
ここに高校時代のテキストが入ります。
ここに大学時代のテキストが入ります。
ここに松下政経塾時代のテキストが入ります。