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2006年12月

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年末年始に思う 2006.12.31[Sun]

 いよいよ平成18年が暮れ、19年がはじまろうとしている。一年を総括して私は日本国民がひとつの自覚と誇りを持つための、前夜の意気がみなぎりつつある1年だったと考える。
 シェイクスピアの詩にこういうフレーズがあると、ある書物に書いてあった。私はそのフレーズがとても気に入っていてよく口の端に上ってくるのだが、シェイクスピアの全集を紐解いてみても、このフレーズがどこから引用されたものなのか未だ私は確認できないでいる。しかし、私はそのフレーズが好きなのである。それはこうだ。
 
生きよ 生きよ
世のすべての因習、頑迷固陋さをはらいのけて、己が生を火のように生きよ。
そして、ひたすらに愛せよ
愛は死を呼ぶ 死は嵐を呼ぶ
今、嵐の中ですべてが生まれつつある

このフレーズは、たぶんに劇的な要素を盛り込むもののために書かれているが、「今、嵐の中ですべてが生まれつつある」というのは、まさに今年から来年にかけての私の期待を含めての所感でもある。
 たとえば、教育基本法の改正で、個人個人という至上命題とともに、公、もしくは個人と個人が属する共同体の尊重というものが明記された。
 私は、日本国民の覚醒は、自分のことだけでなく、社会を尊重する姿勢や教育があってはじめて顕現されると考えている。
 従来は、国民的名誉や自覚や使命といった、人間であれば当然尊重し、持つべき感性について、わが国社会はあまりに無配慮でありすぎたといえる。
 人間という、アリストテレスが言うところの「社会的存在」が、社会的存在であるための教育をしようと、教育基本法が改正されたことは当然ではあるが、従来の教育を変えようという点では、ひとつの評価に値しよう。
 また、防衛庁が「省」に昇格することが決定したことは、現行憲法における「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という前文の理想が、北朝鮮の拉致問題の発覚という現実の前に脆くも崩れ去り、自国の平和と安全は他力本願でなく、自国と自国民の力によって始めて保全されるという当然の自覚が国民の支持の中で実現したことを意味するのである。
 私は数年前に、「改正外為法の確立こそ時代のターニングポイントであり、眠れる獅子―日本の目覚めのはじまり」と、毎日新聞の発言席欄で書かせていただいたが、まさにそうした機運が高まり、冒頭に記したように、日本国民が誇りを取り戻す夜明けの前夜、見失われた誇りを取り戻す、清々しい日中の前の嵐の中にあるといえるのではないかと考えている。
 そして、私自身は、エドモンド・バークの言葉にある、―政治は、現在のわれわれの国益を守るだけでなく、過去の先人と、未来の子孫の名誉を守るために行うものだ―ということをひとつの信念として持ちながら、新しい年も、たたかう庶民派として精力的に活動してまいりたいと存じます。


南京事件反日宣伝映画 2006.12.13[Wed]

 米国において、南京事件を舞台にした映画が、今後、封切されていくといわれる。
中国の意向を含む、偏向著しい国際的反日キャンペーンの一環として、この映画が製作されているとの疑いがある。特に、こうした映画のベースに、アイリス・チャンの「レイプ・オブ・ナンキン」があることが、その疑いを更に濃くするものと言える。
 アイリス・チャンの「レイプ・オブ・ナンキン」については、私も外務委員会の質問で、度々触れているように、そこで使用されている写真に全く事実と異なるキャプションを添えてみたり、写真そのものを変造、捏造するなどして、日本軍による蛮行の証拠として用いられたりしていることは、国会においても、別の委員の指摘もあって明白となっている。
 問題は、そうした事実と異なる記述や証拠とされるものが一人歩きして、日本の戦前における名誉を著しく傷付け、今日の日本に自虐的空気を蔓延させることにある。
 法律の世界では、しばしば善意の第三者という言葉が使用される。つまり、ある悪意を持って虚偽の申請やらイカサマやらペテンをやった人間がいて、その人間の言動を信じた第三者は罰されないという法律上のルールであり、たとえば、Aという人間が、自分のものではない高級液晶テレビを自分のものだと言い、それをBという人間に信じこませて売却したとき、Bはその所有権を獲得するということである。
 アイリス・チャンの「レイプ・オブ・ナンキン」で行っている企ては、まさしく国際世論を善良な第三者として騙そうとするものだといえる。別の表現を用いるならば、ある土地を不法占拠した人間に対し、持ち主が50年も警告もせずにそれを放置しておけば、その権利は正当なものとされることがある。日本政府や日本側の反論が急迫性を欠いている為に、アイリス・チャンの「レイプ・オブ・ナンキン」は今や、事実とは異なるにもかかわらず歴史的事実として、善意の第三者から認識されようとしている。
 恐らく、日本側が、何でそれを史実のように曲解して映画等の背景として用いられるのかと抗議をすれば、訴訟社会といわれるアメリカ世論などを含めて、強く主張しなければ言い分の通らない国際社会の常識にあっては、嘘を嘘であるとこれまで真剣に抗議をしてこなかった日本の方にこそ、より大きな過失があると、逆に言い返されてしまうであろう。
 つまり、こうした事柄に対して、わが国が、国の名誉や先人の名誉に関わる問題として、真剣に反論をして来なかったということが、アイリス・チャンの著作以上に問題であるということになる。
 そのことは、個人や市民団体のできるようなレベルのことではない。極めて重要なことは、こうしたプロパガンダはひとつの政治戦略として米国では確立しており、より有力なコンサルタント会社を使うことが重要となってくる。ただし、ここで私が問題として提起しておきたいことは、いまどきの日本人の多くが、私の利益につながること以外の物事に対して、あまりにも無関心であるということである。
 東南アジアや他の発展途上国において、多くの日本人が感じることは、日本へ留学してきた現地エリートの悲哀である。
 アメリカに留学した人、ヨーロッパに留学した人、中国に留学した人、等は自国に帰国した後に生活の面倒を就学や仕事の部分で留学した先の国が陰に陽に援助しているのに対して、日本に留学した若者の多くはそうした面倒をみてもらうなり、通訳など仕事のチャンスが格段に不足していてさびしい思いをしているという。
 アメリカにしても、中国にしても、ヨーロッパ諸国にしても、要するに国益という観点から、発展途上国に自国のシンパをつくるという明快な戦略の上に立っているのである。
 それは短期的な私の利益に寄与するものではないが、それよりもはるかに大きなメリットを国益としてもたらすものと言える。
 私は、戦後の日本が、今日のメシが食べられないといって経済成長重視でスタートしたことはやむをえなかったと考える。
 しかし、衣食足りて礼節を知るといわれているように、一定の豊かさを確立した時点で、経済的な豊かさだけでなく、名誉といったものに対して、政府も個人も教育も、大きくハンドルを切るべきであった。(私自身は、どんな状態でも、その衣食住と同じように、名誉に顧慮すべきと考えるが…)今日に至るまで、一貫して、エコノミックアニマルと西欧から揶揄された状態を続けてしまったことに、アイリス・チャンに先人の名誉を深く傷付けさせてしまう油断を生じた原因がある。
 今回の反日映画について、大いに反論をするとともに、国益という、個を超えた次元のことに尚一層の情熱とエネルギーを割くように要望していきたい。


六カ国協議と国連安保理 2006.12.8[Fri]

「対話」と「圧力」という言葉が使われている。「アメ」と「ムチ」という言い方もある。
私は、北朝鮮と日本を含む国際社会の間に行われる「対話」が六カ国協議であり、「圧力・ムチ」にあたるのが国連安保理決議だと考える。
但し、アメの次はムチであり、ムチの次にアメが来る、というのが駆け引きの流れである。
先般のミサイル発射や、核実験に対する制裁として国連安保理のぜいたく品や核関連製品の輸出を抑制するための国連決議が安保理決議として採択された。
そして、これを受けて、次はアメを出そうということで六カ国協議への北朝鮮の復帰を含めて対話が為されようとした。
しかし、当然ながら六カ国協議としては北朝鮮が核保有国として席につくことは認められるはずもなく、また北側はその求心力を維持することもできないということで開催は見送られた。
このことは、北朝鮮にとっては対話のチャンスを失ったということになろう。
もちろん、再び圧力の舞台―すなわち、新たな国連安保理決議を取り上げられるまでには若干の時間のゆとりもあり、年明けに六カ国協議を再開しようとする思惑も北朝鮮にはあるであろう。また、米側が、北が核放棄をした場合に、朝鮮戦争の終結を認めるとしたことは、大きな北朝鮮にとってのチャンスといえる。つまり、それは在韓米軍の撤兵をも意味する可能性があるからである。
さて、ここで、わが国のこの問題に対する取り組みはどうかということになる。私は少なくとも、テポドン兇亮最圓蓮日本からの対北輸出規制によってテポドン兇忙箸Δ戮部品が供給されなかったことに一因があるとするのは正しいと考える。われわれは、この毅然とした姿勢を貫くことによって、金正日体制の崩壊を含めて目指すべきであろう。
そして、ここで考えることは、北朝鮮 金正日圧制政権がどのような形でほうかいするのかというシミュレーションをすることと、それに対するわが国の急迫的行動計画をいかに練るかということである。
例えば、崩壊直後に他のより専門的なチームと共に、日本の自衛隊が邦人保護の目的のために、北に拉致されている被害者を救出するという計画である。この場合、事前にどこに誰がいるのかを事前に調べておく必要もある。
次に考えることは、中国がこうした北崩壊に向かってカギを握っているということである。そこで、中国の2008年北京オリンピックや上海万国博覧会が成功するための条件として、幹半島の非核化と金正日政権の排除が必要であるということをキッチリと国際世論やIOCに対してアピールをしていくべきと考える。
また、こうした中で日朝平壌宣言の破棄を含めて、わが国なりの圧力は継続して行っていくべきであろう。
まさに、正念場を迎えたわが国の主権問題、人権問題、安全保障問題としての拉致問題の解決こそ、今の日本に課された最大のテーマのひとつといえよう。
私も、今後一層、その解決に尽力することを誓いたい。


防衛「省」昇格 2006.12.4[Mon]

 防衛省設置法案が可決された。民主党内でこころある多くの同志と共に国防省設置を目指す議員連盟を組織し、その幹事長として活動してきた者としては、素直に評価したいと考える。
 但し、その間の論議を含めて、「立つ鳥跡を濁さず」ということわざもあるように、防衛庁の外局による様々な談合や癒着の類について、キチッとした自浄能力を発揮したい。かつての膿を出し切るための議論やシステムのあり方などの検討等、積み残しの事柄もある。とりわけ軍事機密など、外に詳細を公表できない備品の購入などがあるが故に、逆にそうしたことの公正さが国民から疑念を抱かれないレベルに達する努力が必要である。
 そうしたことをクリアした上で、今まで庁であった国を守る機関が省になることは遅すぎた感もあるが、正しい選択であったと考える。
 日本が自分の国を自分で守る。という国家として当たり前の意思を持ち始めたということが、今回の最も大きなポイントである。
 私は、従来から言っているように、拉致問題の顕在化によって、日本国憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という絵空事が、やはり絵空事に過ぎなかったことが広く国民に認識されたということである。
 それ以来、他国はわが国を守ってくれないし、それどころか隙あらば侵してくるという国際情勢の冷厳な事実が国民に理解され始めたと考える。
 「天は自ら助くるものを助く」と福澤諭吉も言ったが、まさに至言であろう。
 今日の日本の社会が、何かしら歪でおかしいとすれば、その原点に、国家そのものが原理原則を踏み外していることが根底にあるのかもしれない。
 二つ目に、国連もしくは国際社会で重きを為し、また国益を守るためには、様々な国際社会における友好国の軍事組織との連携が必要である。
 例えば、今日の米軍再編成で日米の同盟強化も、もし「庁」のままでこれを行えば、わが国自衛隊は米軍の下部組織として位置づけられることとなる。
 少なくとも「省」としてたち等の立場で日米同盟をやっても、米主導であろうことを考えれば、今回の「省」昇格は最低のボーダーラインであったとも云える。
 三つ目に、国を守ることは古代ギリシャの時代から、そのポリス人の最も名誉を懸けた事柄であった。そのことをする組織が国の組織の中で、「庁」であるということは、国家の名誉に関わる問題として改善されなければならなかったと考える。
 ただし、こうした改革は、スイスが国民皆兵という制度をとっているように、自らの国を自分が命を懸けて守るという一人ひとりの国民意識の高揚によって支えられなければならない。
 国際化社会は、ある意味で電化社会と同じで、実は脆弱な社会である。すなわち、電気が停まるとエレベーターも信号も水もテレビも止まり、パニックとなり原始的生活をしている人間が強いという指摘があるが、国際社会もまた、天災、人災の有事の際に、一気に国々それぞれの社会に戻ってしまうと考えられる。
 治にいて乱を忘れずと易経にあるが、この危機管理こそ国家の最大の使命のひとつとするならば、今回の「省」昇格は、日本に新しい希望と責任を喚起するエポックメイキングな出来事となるであろう。 


 
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