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2009年08月

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歴史の転換点における思い 2009.8.17[Mon]

 人間は、未来に向かって不安を抱き、未来に向かって期待を抱く存在である。
 今回、マスコミにおいて、政権交代が声高く叫ばれている中、実に半世紀近くにわたって政権交代が事実上なかった日本においては、特に大きな不安が有権者の中にあることは、当然と言える。
 しかし、新しい世界を、新しい社会を、作ろうとするときに、其の判断の基準は、現状か未来かと言う視点以外に無いことを考慮するべきであろう。つまり、現状でいいと考えるならば、あえて危険を冒す必要はないが、現状では、活力ある未来を見出し得ないという考えがあるときには、断固として、危険と不安を省みずに未来に向かって挑戦をするべきである。
 新しい民主党政権に対して、多くの不安と期待が交錯する中、あえて私たちと共に、新世紀の新しい航海に多くの国民の皆様に勇気を持って漕ぎ出していただきたいと思うのである。
 さて、官僚の無駄遣いを問題にするとき、以前にも指摘したように、以下の心理学的真理を再認識する必要がある。
 つまり自分の金を自分のために使うときに人間は一番真剣にお金を使う。他人の金を他人のために使うときに一番人間はいい加減にお金を使う。
 まさに官僚による無駄使いによって、例えば、埼玉県の体育館が2880万円で作られ、その営業が大赤字の末にたった1万500円で施設が売却をされたりすることは、このことのいい事例である。勿論、厚生労働省は、こうした勤労福祉施設が、放漫赤字経営であっても、雇用保険を使って勤労者の福祉に役に立ったものであるからと言う理由で、抗弁をするであろう。しかし、450億円近い雇用保険が其のことによって失われてしまった事実は、本来の雇用保険の趣旨から見れば極めて許されないし、こうした勤労福祉を伴いながらも、雇用保険の元金の量を増大させると言う方向が本来の考え方に必要であったと言える。
 たとえば当初、10億円で甘く甘く見積もられた工事が完成したときに、結果としてその数倍の決算額を要求されることも、自分の金を自分のために使うと言う感性では理解できないものであるし、新しい飛行場や港湾を建設するときに、当初甘く甘く更に甘い利用客の需要予測を立てて、結果としてその半分以下の利用客しか生じないで大赤字になることも、他人の金を他人のために使うときには、いい加減になるということを如実に示している。
こうした人間の本性を、いかにして食い止めるかと言うことが重要である。
 私は、そこに公務員幹部職の責任論と言うものが考えられるといいたい。
 明治時代に武士の商法は、殆ど失敗したと言う。官僚の種種の基金の株式を含む運用は、同様に成功する可能性が低い。
つまり頭を下げて商売をしたことのない人間、民間の商売の血のにじむような経験の無い人間が商売で成功できると考えることは現実的でない。失敗したときの責任がないと言うのであればなおさらである。
 別の観点から言うと、私は、今日の社会の問題点については、暴走する資本主義と暴走する官僚主義の是正であると言いたい。
 資本主義の暴走については、アメリカにおいても、貧富の格差の拡大によって、大きな社会矛盾が発生し、政権が終に共和党から民主党オバマ政権に移動したことからもその問題点の認識は国際的にも明らかになっている。
 世界のどこの政治も経済も、あのリーマンショックの原因となっている、あの異常な金銭的経済至上主義と、加速度的な金儲け主義については、今日否定的であるのでここで多くは述べない。 少なくとも、民主党においては、生身の国民一人ひとりに政治の光を当てることによって、経済至上主義によって生まれた社会の崩壊を食い止めようと考えているし、そうした個人個人の福祉の向上を通して、家庭や個人の可処分所得を増やして景気の浮揚を自然な形で行おうとしていると言うことを記しておきたい。

 そしてもう一つが今述べてきた、暴走する官僚主義の是正である。
 この暴走する官僚主義は、いくつかの条件によって発生をしているが、特に政権党が、暴走する官僚に対して統治能力を欠如していることから決定的となっている。
 それは官僚が事実と違うことを表明したときに其の裏が取れないと言うことにも端的に現れている。大変残念なことに、安倍政権下で5千万件の宙に浮いた年金問題が明らかになった。そのときの社会保険庁の課長が、その5千万件は死んだ人の年金だというのを受けて、裏を取ることをしないで、総理が、宙に浮いた5千万件は物故者の年金であると表明し、事実が違うことが後で明らかになった。政治が暴走する官僚機構に対して統治能力を失っている証拠である。
 暴走する官僚主義の次の問題点は、手段の目的化という現象である。
 例えば、雇用保険の積立金を使って、厚生労働省が2万箇所の保養所や体育館などを作ったことは記憶に新しい。グリーンピアでも同じである。
 こうした施設は、それを作ることが目的なのではなく、原資の4500億円の雇用保険の積立金を、運用することによって大きな利益を上げること、そのことによって、失業したときの給付額をより大きくするために作られたのである。
 しかし、いつの間にか、その基金を使って施設を作ることそれ自体が目的となり、次から次へと体育館が作られ、保養所が作られた。結果は先に述べたように、2880万円で作った埼玉県の体育館が10500円で売却されたように、もともとの雇用保険が増えるどころか5000億近く失われてしまった。
 例えば、年金の基金を利用して、そのまま温存しておけばいいものを増やそうとして其の膨大なお金を株式に投下して数兆円単位の損失を計上したことも同じような事例である。
 つまり運用すること自体が目的化しているのである。
 100年安心年金プランも同じである。古い出生率のデータをもとにして年金の計画を練り、あえて新しいデータをあたかも握りつぶすようにしてプランが作られた。
 当然実際の新しいデータでは、出生率は下がっていたので、国家からの補助率を3分の1から2分の1にあげなければ対応できないこととなった。100年どころの話ではない。
 道路を作るとき、飛行場を作るときも同じである。本来は真面目な需要予測で黒字になる、つまり真に必要なところに作ろうと言うことでスタートをするべきなのに、作ることがはじめにありきで、需要予測は、それを正当化するものを敢えて作るようになる。これも手段と目的の取り違えであり、手段の目的化といえる。
 農業において、目的は安全な食糧を自給できる農業を作ることである。しかし、農業対策と言いながら、多くの農業をがんじがらめにしながら、結果として食料自給率を70%から40%に減少させてしまっては、目的はどうなっているのかと言う疑問は当然発生する。役所は、大きな戦略的意思決定ではなく、重箱の隅をつつくような意思決定をして、木を見て森を見ずのように、大局において最大多数の最大幸福を見失っていると言える。
 そして、責任なきところにおいて、官僚は、その思うままにハコモノを作り、道路を作り、飛行場を作り、株式に投資をし、いよいよ暴走を繰り広げ、挙句の果てに1000兆円の国と地方合わせての借金を積み上げた。
 親方日の丸とは、まさに暴走する官僚主義の守り神であった。
 そして、そのつけが、医療崩壊や、高齢者の医療等、本来必要な行政活動に十分なお金がいきわたらなくなり、後期高齢者医療制度によるお年寄りいじめと言う形や、母子加算の廃止と言う形などで具体化している。

 最後に、日本の伝統を守ると言う従来の政権党についていくつかを提起したい。つまり、ひとつは、真の保守党であれば、近代の日本の歴史を否定的に評価するきっかけとなった東京裁判について、反撃をしない保守は真の保守といえないと考える。東京裁判史観を再検討し、過ちを改めさせ、平等の中での国際的裁判をして見直すことは健全な保守勢力がするべき課題である。
 また、拉致問題が発生していまだにスパイ防止法策定に真剣でない政権は、拉致問題の解決に真剣とはいえない。言葉だけで毅然たる外交と言いながら、実際の行動において主張するべき事を、水面下で行う外交が重要であると言って、主張しない外交は、失格である。
 また、今、最も日本の名誉を大きく損なっている村山談話は、一方的リンチ裁判ともいえる東京裁判と共に、まずその桎梏を乗り越えていかなければならない事柄である。
 その村山談話も、結局は事実上の自民党政権下で作られ海外に発信されたものである。

 国家は大文字の個人である、と古代の哲学者プラトンが語ったが、国家が外交で何も主張しないことは、その国民の自信と尊厳を失わせしめることとなる。今日の日本において70%の青年が自信を持てないといっていることは、国際的に考えてわが国の豊かさを考えれば極めて異例である。日本が外交上、自分自身で判断せず主張しないことや自虐的である態度こそ、そうした青年の自信を失わせている大きな原因と私は考える。
 まさに国家のグランドデザインを持って、国際社会でも毅然として訴えることを怠ってきたことのツケは大きいと考える。
 私は、官僚機構に対して統治能力を失い、1000兆円近い国と地方の借金を作り、5千万件の宙に浮いた年金を作り、食料自給率を40%にまで下落をさせてしまい、挙句に第二の東京裁判のごとく、村山談話まで事実上合同製作してしまった政権党には、財源論を語ることは出来ないし、責任論や、国家の誇りを語る資格まで十分になるのかという多くの国民の疑問が生まれるのも当然であろう。


 我々は、まさに、そうした暴走する日本の資本主義と官僚主義を正すために、政権交代を目指すのである。同時に、政治において、情熱が重要であると言うことを指摘したい。
 ヘーゲルと言う哲学者が、いかなる歴史的事業も情熱なしには成就しなかったと言っている。
 前回の荒野の叫びでも指摘したように、私は、世の中の問題は、いかなる問題も経済原則だけで解決できるものではないと考える。
 例えば、福祉において、それなりの給与がヘルパーさんに必要であることは重要である、医師においても、それなりの給与が必要である。個別の課題はそのようにして金によって解決できるように見えるかもしれない。
 しかしお金の問題だけでトータルなすべては解決しない。真の物事の解決は、其の国家や地域において、そこに住む住民や国民によって、強い情熱がその社会に向けられているかどうかが重要である。
 そうした人間の情熱が、例えば、社会ボランティア活動や、地域の防災防犯活動のようなもの、更には国土保全の活動のようなものと結びつくことによって、社会全体に大きなエネルギーが発生してよりよい社会が生まれるのである。
 そのためには、国家の国際社会における「海洋国家日本」のようなグランドデザインが求められる。
 今日の政権は、そうしたグランドデザインを少なくとも、池田総理の所得倍増計画と言う即物的であるが一応のグランドデザイン以来ほとんど作ってこなかった。
 田中角栄の日本列島改造論はひとつの方向性を示したが、国民多くの意識の中に浸透するような国民のコンセンサスを得るグランドデザインとはならなかったと私は考える。
 私たちは、政権をとった暁には無駄をなくす、不安をなくす、社会保障を充実させて内需を拡大するといった経済的目的と同時に、日本人のパトスと心情に訴える、国家のグランドデザインを作る必要を感じている。

 こうした目標を持って、いよいよ歴史が其のとき動いたと後世に言われるこの20日間を走り抜けていきたいと考える。
 繰り返し、このホームページを読まれている皆様に申し上げたい。
 後世の歴史家によって、間違いなくあの時歴史が動いたと言われる8月の終わりの戦いに対して、傍観者としてその変化を見つめるのではなく、どうか歴史の主体者として、舞台に上がって、共に政権交代の共同作業にご参加をいただきたいということである。
 後世、この政権交代の闘いに参加した同胞に対して、必ず歴史は勇気ある人という尊称を与えるであろう。
 そこには期待があった。しかしその十倍の不安もあった。しかし現状か未来かと言う選択の中で、勇気を持って未来の政治を選択した人達に必ず、運命の女神は微笑むであろうと言うことを私は確信している。
 そして、私自身が運命の女神に微笑まれるためにこの闘いを断固として闘い、その後の政治において、全力で活力のある誇り高い祖国を作る為に戦う決意である。


八丈島を訪問して 2009.8.14[Fri]

昨日朝一便の飛行機に乗って、八丈島に向かった。9時前に八丈島空港に到着した。そして、朝7時49分に震度5の地震が島を襲ったことを知った。
 八丈島に降り立った私は、島の南方から視察を始めた。特に、末吉、中之郷、における道路において、小さながけ崩れが見られた。また途中の墓地において墓石がいくつか倒れていることを墓参りの人に聞かされた。
 また中之郷近くにおいては八丈島独特の玉石垣が、崩れている現場に遭遇した。
 そこの家の人達が総出で今にも落ちそうな玉石を落としたりしていたし、別の場所では、玉石を傷つけないようにと、木をあてがった上で、金槌で叩く作業も見られた。
 地震発生当時の状況を聞くと、雷鳴のような大きな音がして玉石垣の玉石が転がって10メートルくらい道路を海側に移動したと言う。
 また多くの人達が、感じたことのない縦揺れに、其の瞬間、体が固まってしまって動けなかったと言うことを告白していた。
 幸いにして、死傷者、家屋の倒壊は無かったようである。
わずかな時間の出来事とは言え、島にいた皆さんの多くが驚かれたことと思う。心からお見舞いを申し上げたい。
 その後、東京都八丈支庁長を訪問し、また町役場の総務課長からも被災状況について具に話を聞いた。
 防災の緊急連絡が地震発生後1分も立たないうちに担当職員の携帯電話に通知され小さな島と言うこともあって10分以内に職員が集まり、それから緊急対策の会合がもたれたようである。
 特に高齢化率が高い島と言うこともあって、65歳以上の高齢者に関しては、町が其の安否等を担当し、64歳以下に関しては、都の支庁が担当するような話も聞いた。
 今回は、幸い被害も小さく、島民も行政も押し並べて冷静に迅速に対応できたようである。しかし、今後どんな自然災害に見舞われるかわからない。今後とも、常日頃からの備えを怠りなくしてもらいたい。
 私は解散する前の衆議院における災害対策委員会の野党筆頭理事として、こうした災害に対して、現地現場主義を更に貫いていきたいと考えた。


 
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