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国際社会における日本の優位性と課題

未来第23号に掲載

 今日、我々は地球が一つの経済圏としてまとまろうとする人類が未だ経験していませんでした。国際化社会の中にいるということは、誰もが知っています。そしてこの国際社会というのは、文化的、人権的、経済的融合をともなうものであるということも、同様に、我々は知っています。
 経済的融合では、世界は一つの経済に収束しつつあり、世界を駆け巡るマネーは、その住みやすい場所を求めて駆け巡ります。つまり、利息の高いところ、労働賃金の安いところ、規制の少ないところ、税金の安いところに向かって「カネ」は流れ込みます。
 とりわけ、コンピューターネットワークの進展による「電子マネー」の実用化は、こうした傾向に更に拍車をかけて、カネが益々国境というものと無関係に移動していくことなると考えます。
 また、一方において、従来は一つの国の中で、全ての産業が上流から下流まであったのですが、今日は全ての分野で、こうした傾向は失われ始めています。
 具体的には、日本のゼネコンが大きなビルを東京に造ったとしましょう。その際、従来であれば、その建物に使用する部品、その他全て国内のもので賄っていたに違いありません。
 しかし現在はそうではなく、アルミサッシはより廉価なマレーシアの製品を使用し、大理石は中国産のものを使用するといったように、多くのものを国外に依拠するようになっています。
 官公庁の入札においてですら、海外のゼネコンが落札し、建物の総指揮をとるようなことが見え始めています。
 つまり異和感なく、海外の材料や海外の労働者や、海外の会社を使って、建物が出来るようになってきたといえます。
 例えば、季節労働者といえば、昔は新潟などから、冬の間、暖かい東海地方や東京に賃働きに出てくる肉体労働者のことを指していました。
 しかし、今や季節労働者は、国内を北から南に移動する人達の一群ではなく、他のアジア諸国や中近東から、日本に出稼ぎに来る人のことになっているとすら思えます。つまり季節労働者といわれることすら、国内的移動から国際的移動になってきているのです。
 そして、こうした経済的融合は、当然のように文化的融合と、人権的融合を促すこととなります。
 今日、日本人と外国人との結婚というものは、全く意外性のないものとなってきています。
 私の妻の姉も、アメリカ人と結婚して現在、ロサンゼルスに住んでいます。民主党では、鳩山邦夫都連代表も国際結婚をしています。
 もはや、国境における経済の壁がほとんど障壁になっていないように、民族の壁というものも、ほとんど失われつつあるように思えます。
 とりわけ、日本のように、今までの歴史の中で、ユダヤとパレスチナにおけるような民族の相克を血液の中にもっていない、別の表現を使えば、いろいろな意味において他のヨーロッパ諸国におけるような人種偏見の伝統が乏しい我が国においては、ひとたびこの壁が崩れると、むしろアメリカ合衆国並みの人種融合がすすむかもしれないと考えます。
 歴史のみならず、我々日本人は、ヨーロッパの人が機械に対して、自分達から職場を奪うものとしての憎しみをこめて「ラッダイト運動」を起こしたような、そういう憎しみを持っていません。それどころか手塚治虫の「鉄腕アトム」に見られるような親近感をロボットに持ち、工場のロボットに「太郎」とか、「花子」とか名前を付けるような特性をもっています。
 そしておそらく、その淵源は大和朝廷の、更に前の時代まで溯るのであろうと考えます。例えば、飛鳥には三輪山という山があります。異説をあえて言及する人によれば、「ヒミコの墓」ということにもなります。もっともヒミコの墓は「箸墓」と比定する人が一般的であります。この三輪山はかねてから「神々の山」と言われてきました。この「神の山」の麓に三輪神社という日本で最も歴史の古い神社の一つが建っています。そして、ここに日本の神社神道の特徴もあるのであるが、その御神体は「山」そのものなのであります。
 つまり、これは原始宗教のアニミズムであると言う人もいるかもしれませんが、この「神の山」の麓にある三輪神社という日本で最も歴史の古い神社こそ、人間以外のものを人間と同じような一つの人格を持つものとして認めることのできる、日本人の画期的な精神構造がここにあると私は考えています。
 それは、人間と他の生命との間に明快なる線引きをするヨーロッパ人とは全く違う「自然観」であると同時に、他の全てを抵抗なく受け入れる日本人の特性につながるものといえます。
 そのため日本の神道は、飛鳥時代において仏教を許容し、やがては神仏習合ということにすら至ったのであります。
 もちろん、蘇我氏が中心になって仏教を日本に輸入した際に、昔からの日本の宗教を守る立場から、物部氏が戦いを挑み、滅びていったというような事実はありました。
 しかし、それが今日のシーア派とスンナ派のようなイスラムの内部における対立や、ドイツ三十年戦争を起こしたときのような、ヨーロッパにおける何世紀にも渡る宗教戦争に発展しなかったのは、神道そのものが自己否定することなく仏教を取り込むといった、おおらかな資質を持っていたからと言えます。
 むしろ、物部氏のように頑迷に神道に固執する方が、神道の本質から逸脱していたとすらいえるかもしれません。
 この飛鳥時代の文明開花と同様に明治維新の時も、「和魂洋才」というコトバの流行する中、日本の国際化、西洋文明の移入は極めてスムースに行われました。
 しかもそれが、明治時代に至るまでの江戸時代三百年の鎖国をしていた国であったことを考えると、ほとんど奇跡に近いと考えられます。
 したがって日本における国際化に伴う経済的融合と人権的融合と、文化的融合は、その本質の部分において、他の世界の国に比べれば偏見なく、しかも速やかに進むと考えられます。
 極論するならば、21世紀型の地域融合経済、地球融合文化、地球融合人権に対応できる国は、その国の成り立ちから、すでに地球型多国籍人権、多国籍経済、多国籍文化をもっていたアメリカ合衆国と、全ての文化・人権・経済に順応できるアニミズム的特質をもっている日本の二つではないかとすら、考えます。
 しかしここで、その国際的融合に適う将来のある日本にとって、アキレスの腱があります。
 それが国際的度量衡の統一に棹差す、日本の様々な伝統ある旧来のシステムの問題であります。
 私は今日の社会は、すでに述べたように経済的、文化的、人種国融合の社会であると論じました。
 そして、そうした一つの社会をつくるときに、とりわけ経済的側面にリンクする問題であるが、様々な尺度の統一ということが課題になります。
 例えば歴史上の中国の統一のときに秦の始皇帝は、広大な領土の支配と有機的統一性をつくる為に、強大な中央集権官僚機構と強大な軍隊を整備しました。また、万里の長城を築き、一方において大運河を構築しました。       
しかし彼の為しえた業績の中で特筆に価するのは度量衡の統一であると公正に置いて評価されています。
 それまでの中国は五百年天余に及ぶ春秋戦国時代の中で、多くの諸侯がそれぞれの陣地 の中で、多くの商工がそれぞれの陣地をかまえ、そして、戦国七雄と称される国々に収斂しつつ、戦争を交えていました。
 そもそも、中国が歴史的に一つのまとまった大国であった期間というものは三千年の歴史で、むしろ少なかったことに証明されるように、あれだけの広い空間は、いくつかの国のように割拠している方が状態であり自然と言えるでしょう。
 そうしたことを考えるときに、今日の世界の国々を見ても、その規模からして当然、この春秋戦国時代の一つ一つの国は、個別にそれぞれの貨幣と法律と度量衡を持っていたわけです。
 そして、これらの七国を一つに束ねた秦国は、国家的統一のためにそれまでの様々なものをはかる尺度を一つの統一基準にまとめあげていきました。現在の世界は、まさにかつて中国の秦帝国が二千年前に行った地球規模の度量衡の統一の向かいつつあります。現在の世界においても、メートルやヤードがあり、ドルやマルクや円があります。それが、現在アメリカを中心として統一の方向性を見出しはじめています。それを称してグローバル・スタンダードともいい、またアメリカン・スタンダードともいうのであります。
 そして、このグローバル・スタンダードを提供した国と、それに一早く乗じた国が、そのグローバル・スタンダードの確立した領域の先進国になるのであります。
 したがって、当然アメリカは、ほとんどの領域でイニシアチブを握り、また圧倒的強みをもつことは当然となります。 
 例えば、世界共通の言語としてアメリカ語がグローバル・スタンダードとなれば、アメリカ人は非常にメリットがあるわけであります。
 今日、日本人よりも韓国人の方が英語でのコミュニケーション能力があるために、国際化社会に対する適応力が強いなどといわれるのも同様であります。
 しかも、世界に一気に広まるコンピューターの言語も、アメリカ語で記述されていることを考えると、アメリカの国民はこの分野だけで、時間的、肉体的に他の国民よりもはるかに有利に、優位性を持つこととなります。
 つまり、言語におけるグローバル・スタンダードを握っているアメリカが、その言語という領域については圧倒的に強みを発揮するわけであります。
 そして、逆に、このグローバル・スタンダードに乗じ切れなかった国は、国際的にこの分野で孤立し、落ちぶれていくことになります。
 例えば言語の世界のグローバル・スタンダードである、アメリカ語を全く無視する国家があれば、その国はおそらく世界の経済の流れから阻害されて結果として国力を失うこととなるしょう。
 とりわけ日本のように、資源も少なく、そして世界の国と共存共栄によって国を成りたたせているところでは、グローバル・スタンダードに一早く乗じることが肝心といえるでしょう。
 事実、日本の今日の税制改革も、社会システムの改革も、その方行に向かって進んでいます。
 税の直間比率の問題であっても、すべからくアメリカと同じようにした方がメリットは出てきます。
 証券市場における業務の簡素化も同様であります。
 しかし、とりわけ私がここで主張したいことは、経済の制度的部分におけるグローバル化の対応だけではなく、その迅速性の問題だということです、例えば裁判についての迅速性の問題があります。
 ある時、ある外国人の不動産を取引をしている人間と議論をしたことがありました。その時に彼は、日本の不動産売買について、本来、この値段であればもっと外国人による売買が盛んでもいいはずであるが実際はそうなっていない。その理由は不動産売買にともなう手続きが煩雑であるということもあるが、何らかの問題がその不動産にあったときに、その問題を早急にケリをつけることが難しいという裁判等の迅速性の無さが、最大の欠点である、と指摘していました。
 現下の経済は、何が一番の強みであるかといえば「スピード性」があるか、ないかということともいわれています。
 正しいことでも、その正しいことを行なうべきタイミングを逸してしまうと間違ったことになってしまいます。
 動きの鈍い経済行為は必ず敗北するという今日の状況の中で、裁判の簡便化・迅速化は、それ自体が直接、経済の事柄に属していないとはいえ、極めて重大な課題です。もちろん訴訟以外の処々の事務手続きの煩雑さを世界で最も簡便なものにすることは同じようにスピード性の観点から肝心ともいえます。
 だからこそ、国際化に伴う税制や、他の社会的システムの見直しと同時に、それぞれについての迅速性を世界の一、二の水準まで引き上げることこそ肝心と思われます。
 そうした意味においても、私は政治が果たす領域は広いと考えます。
 なぜならば、行政、官僚主体の変革は、それ自体、彼らの既得権を侵すことの無いという限界があるだけではなく、積み上げ方式であるがために、その即効性、リーダーシップに限界があります。
 やはり、政治が、スピーディーに日本経済の今後の展開についてのアクションプログラムを設定して、多くの世論を背景にして、こうした課題に取り組むことこそ、今、求められていると言えます。
 それを政治が行いさえすれば、本質的にアメリカ合衆国と匹敵する程の国際化社会に通用する「神道」的民族性をもつ日本人は、必ず地球規模における民族的融合、人種的融合、経済的融合、文化的融合における勝者になると考えます。