spacer menu home menu prof menu kouya menu seisaku menu kouenkai menu kiroku menu media menu link spacer

 

経済暴論

未来第10号に掲載

 長きの不況が続いている。経済について、今回はあえて発想の転換を求める為に、極めて大胆な暴論を述べてみたいと考える。
 経済は生き物とよく言われる。その生き物が元気がでるようにすることが、肝心である。この経済の元気というのが、やはり人問の場合と同じで肉体的な部分と感情的な部分に分かれるのである。どんな人間でも肉体が元気でなければ元気ではない。その意味では肉体が元気であることは人間が元気である為の必要条件である。しかし、肉体が元気であっても、精神的に落ち込んでいては元気ではない。人間が元気である為には、肉体のみならず精神も元気でなければならない。
 このことを経済に例えれば、肉体的部分とは、現在の社会の生産設備、流通設備のことである。どんなに国民感情が高揚していても、現在の生産設備が戦争での爆撃で破壊され、たいして機能できない状態であれば経済が元気になるはずはない。物理的社会条件が備わっていることは、肉体が元気であると人間が元気であるように、経済が元気になる為の必要条件である。ところで、今日の不況であるが、現実の経済世界を見ると、生産設備も、流通の部分も、好況の時と同じように実在している。
 もっと言えば、第二次世界大戦後ような瓦礫の中に、全ての都市機能、工場機能が失われ、機械が壊され、物流の拠点がバラバラに断たれたということではない。少なくとも海外の識者が、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言っていた日本の経済が全盛であった時代と外面的部分については変化していないのである。つまり、今日の不況はまさに、人間の体に例えれば、肉体的部分はピンピンしているのが、精神的、感情的部分において元気が無く、顔色が悪い状況といえるであろう。精神的な部分による不況である。このことを更に一つの事例をとらえて考えて行きたい。
 かつて前川レポートの項に、サラリーマンの年収の5倍で戸建てを買えるようにしよう、ということが言われた。その時役所の考え方では、戸建ての値段を年収の5倍に下げるべきということになった。しかしこれは、理論上はそうであっても、感情部分ではプラス発想ではなく、マイナス発想でしかないのである。むしろ、同じことを実現することであっても、年収を戸建ての値段の5分の1まで上げるということであれば、プラスの思考となるのである。
 そもそも、日本の経済はアメリカのように資源のある国ではない。アメリカであれば、多くの国民が新しい土地や、建物や、設備を含めて投資活動を控えたとしても、レアーメタルや、石油を産出することによって富を構築することができる。つまり人間資源以外の自然資源によって富を構築できるのである。しかし日本のように、天然資源に乏しく人材資源しか無い国では、人そのものが活動して、富を構築するしかないのである。
 しかし、資産デフレが生じ、土地、建物を含め投資する場合に、キャピタルゲイン的要素のない状況では、何もしないでじ一っとしていることが一番無難の選択となる。その結果として、自然資源はなく人材資源の活動によってのみ富を構築できる日本としては、その経済が失速することになる。まさに人間そのものによって経済の元気さを保つ日本おいては経済の元気さは自然資源を抱負に持つ国と比較して、より情緒的、感情的な要素によって占められるのである。
 そこにおいては、むしろデフレよりインフレであることが好ましい。何故ならば、すでに述べたように、デフレであると日本の唯一の資源である人材資源の活動がネガティブになり、インフレであれば「カネ」を「モノ」に投下しないとキャピタルゲインの逆ざやでむしろ損をするという考えから、人間が企画や設備投資やらで熱心に活動をするようになり、結果として唯一の資源である人材資源が富の構築をすることにリスクを背負いながらもポジティブに働くことになるからである。
 そこで先程のサラリーマンの年収の5倍で買える戸建てという話を考えてみると、同じ1対5だからといって、マンションの値段をサラリーマンの年収の5倍に下げるのと、サラリーマンの年収をマンションの値段の5分の1に上げることとは全く違ったことを意味するということが判然とするのである。前者は人間資源の活力にネガティブに働き後者は人間資源の活力にポジティブに働くのである。
 こうした一つの認識をもって私は「経済暴論」を述べるのである。それは、新しいタイプの無税国家とでもいうべきものである。つまり、人間資源が、ポジティブに富の構築に向って稼働し、そして経済が元気である為の「暴論」である。 そのスケルトンは、税金を集めずにその歳入分の紙幣を増刷するということである。例えば、40兆円の国家予算であれば、40兆円の紙幣を増刷するのである。日本における個人資産の総額は1200兆円と言われており、40兆円の紙幣増刷のマイナス面を吸収することは可能と思われる。むしろ株価が千円下がるだけで銀行の含み資産が3兆円減少し、株式資産が16兆円分減少することを考えると、40兆円増刷しても2500円株価が上昇すれば、全くかまわないこととなる。もしくはその増刷によって3千円の株価の下落をくいとめれぱ、それは有効であるということになる。
 要は、1万円札にしても元をただせば、「紙」である。その「紙」に、1万円という価値の幻想を仮体させるのである。アメリカでは1ドル紙幣を包装紙に使用している店もあるのである。その価値を担保するのは、「経済の元気」さである。その経済の元気さは、現実の生産設備や流通の設備などの部分と、精神的な部分によって担保される。それ故、日本の経済の元気さがなくなれば、1万円札の価値は限りなくその「紙」の価値に近づいていくことになる。あたかも人間の元気さが肉体の元気さと精神の充実によって担保されるように。そしてこの現実の生産設備や都市については、全てジャパン・アズ・ナンバーワンの時代と同じであり、工場団地が爆破されたわけでもない。まさに精神的な部分にこの不況の理由はある。それは、資産デフレと株価下落で強い印象を与えているのである。
 とすれば、1つの大胆な幻想とおカネの魔術を上手に使うことによって、景気に一定の方向性をもたせることができるのである。まさに、おカネは経済の血流であるとともに、経済を活性化し経済の幻想を創出し、勤労者に働く意欲をかきたせる為の方便として存在しているのである。また、大戦間時代にレンテンマルクを造って貨幣の魔術師といわれたシャハトさながらに、こうした経済暴論のような発想が求められるのである。毎年税金分の歳入について紙幣を増刷し続けて、結果・経済が元気ならばそれは足とされるのである。勿論、行政改革をした上での最低限の紙幣増刷であるが。
 くどいようであるが、こうした紙幣増刷が安易な行政肥大化につながってはならない。それゆえに、こうした政治の前提として徹底的な行政のスリム化と行政改革は必要である。問われるのが税金分の紙幣を増刷したときのマイナスと、税金の徴収したときのマイナスのどちらが、経済の精神的領域において、ネガティブに働くのかを比較することである。昔から重税感のある社会に繁栄はないことを歴史が証明している。税金を集めて経済が失速するならば、税金分の紙幣を増刷して経済の幻想を創出し続けて、勤労者の働く元気を維持することのほうが意義深いのである。
 そして、これは実は暴論でも何でもなく、経済という大きな幻想を夢として抱き続ける為の方便であり、経済という大きな幻想をあまり杓子定規に実体的発想をしすぎると幻想が失速するということも述べておきたい。