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私の無税国家論
〜原価の不況克服のために〜

未来第14号に掲載

 かねてから、日本におけるデフレは経済活動にとってマイナスにしかならないということを私は主張してきた。
 何かにカネを投資するということは、通常の経済活動では利益を獲得する為に行われる。そしてその場合、一般には土地建物といったものに投資が行われる。経済がデフレ状態にあれば、投資した設備そのものは、価値を時間とともに下落させていくことになる。
 具体的に言えば、ある会社が工場を建てる為に土地を購入すれば、勿論、その工場において製造される様々な有用物がその会社に利益をもたらすが、それと同時に従来の日本社会であれば、会社はほぼ常に、工場を建てた土地からのキャピタルゲインをも獲得したのである。
 かつて日本では、不動産が長期的に値上りを続けている限り、ある意味では邪道であるが、その会社は、工場で製造した製品によって利益を十分に得られなくても、それでも、その工場の建っている土地からのキャピタルゲインで利益を上げることができた。
 つまり企業は、自らの実業と別の安全弁をキャピタルゲインの中に含み資産として持ち得た。つまり、事業におけるハイリスクを、設備投資によるキャピタルゲインというほぼ確実に手に入れられる含み利益によってカバーでき、その分だけ、積極的な設備投資をすることができたのである。
 逆に資産デフレの状態は、少なくとも投資した設備や土地といったものは、その価値が下がる方向にあるわけであるから、そのキャピタルデフレの分も、商品に利益の中に含まれなければ、あえて設備投資をして積極的な経済活動をしていこうということにならないのである。
 つまり、新規の生産活動や営業活動で生じる利益が、資産デフレ分の含み損を合計しても更に黒字になるくらいの圧倒的な利益獲得の可能性がなければ、あえて設備投資をして新規事業を始める危険を冒さないのである。
 つまり、土地神話があったり資産インフレの時代は、会社はその製品の利益とキャピタルゲインという二つの要素を足しあわせることで積極的に設備投資の行動に打って出た。
 しかし今日では、逆にその製品によって生じる利益からキャピタルデフレ分を差引いてそれでも利益が残るという、きわめて安全なる条件がなければ積極的に設備投資をしないのである。
 つまり、今日の資産デフレは、まさに経済行動をいよいよ萎縮させていくのである。
 アメリカのような資源のある国では、人間の経済活動が、日本におけると同様に資産デフレになり、とりわけ設備投資の意欲が減退しても、どんどんと自然の中から有用物を取出すことができる。
 例えば石油や鉄鉱石を産出しつづけて、それなりの利益を作り出すことができる。したがって資産デフレによって人材資源がリスクを犯さない、経済活動萎縮型になっても、国の経済は富を産出しつづける。
 しかし日本のように資源はヒトしかないという国では、人間の動きが萎縮すれば、経済は止まる。つまり、リスクを恐れて、カネをカネのままで保持することの方が何かに設備投資するよりもはるかに得策であると一人一人が判断して人間の動きが、極端な表現を使えば止まるということになれぱ、経済は決定的に失速するのである。
 くどいようだが、今の状態は何に投資をしても資産デフレ分のキャピタルデフレは発生するのであり、それならば何もしないでカネのままタンスにでもおいておく方が、余程勝算のある商売でもしない限り、一番賢明なこととなる。
 それゆえに、土地の値段を下げるというような資産デフレに結びつく発想は、日本の経済を活性化させるためには、絶対にしてはならないことと言える。
 日本のような人間しか資源のない国では、むしろ「カネ」にしておいていたら、その価値が半減するという恐怖によって、何とかそのカネを有用に活用して、利益を上げようとするハングリー精神を高揚させるためにも、また、キャピタルゲインという安全弁を持ち、より強気で、設備投資するためにもインフレであることが好ましい。
 だから、前川レポートの一戸建ての価格をサラリーマンの年収の5倍に設定するべきだという報告は、その価格の比率が、結果として1対5になればよいという単純な理論で済ませてはならない。土地の値段を下げてサラリーマンの年収の5倍で戸建てが入手しうるということと、逆にサラリーマンの年収を戸建ての5分の1まで上昇させるということは、同じ1対5でも、その意味するものは天国と地獄ほどの差があるということを銘記しておくべきである。
 むしろそこで問われるのは現実の経済がいかに活性化させるかという一点である。だから、土地、建物の値段を据置いて、サラリーマンの年収を、その五分の一まで上昇させる手法を採ることこそ、日本のような社会の経済活性化については絶対に必要なことである。
 こうした発想に立脚した場合に、現在の不況をいかにして克服して活性化するかについては、すでに未来1号で提示したように紙幣の増刷がもっとも有効と考える。
 しかしそれは一つの絶対的な前提を持つ。すなわち行政の徹底的なスリム化をするということが、必要最小限の絶対条件であり、例えば民間並の競争の原理を行政に導入し、また民間に委託できる分野は徹底的に民間に委ねることを前提にする。
 こうした前提に立って私は、今日の日本の経済を活性化するための超弩級の処方箋として無税国家を提案する。
 税金は一切取らずに自由に経済活動をさせる。カネの流れを血液の流れというならば、税金は、血管中のコレステロールのような障害物のようなものである。
 これが高ければ高いほど、血液の流れは血管が詰まっているのと同様に低下する。
 その意味で無税国家は、一つの経済的理想形である。すでに述べたように徹底的な行政のムダを削ぎ落としスリム化をした後に、必要最低限の国家運営分についての税金で集めていた分の原資は「一万円札」を増刷することによって賄うのである。
 一万円札を増刷することによって、必要最小限の国家運営の原資を調達する。そして、そのことによって、インフレが発生する。それによって、日本における人材資源は必死に、資産を守るために、活動することになる。
 インフレを嫌って海外に流出するカネもあるであろう。しかし無税であるメリットによって国内にとどまって増幅するカネがより大きいに違いない。そして対外的には円安が発生し、産業の空洞化に歯止めがかかるであろう。それでも例えば30%円安が進行しても日本国内におけるマネーフローが2倍になれば、日本の価値は下がっていないのである。
 社会的弱者は、その一方で、キッチリとした、必要最小限の福祉的処置を行う。
 私は「カネ」というのは一つの経済活性化のためのツールとしか考えない。カネそのものの実在性を尊重する立場にはない。経済がいかにうまく活性化するか、ということ一つの方便としての「カネ」であるかどうかが問われるのである。
 勿論この考え方は多くのバリエーションに展開できると考える。
 例えば間接税についてはグローバル・スタンダードのレベルに設定して徴収する。そして直接税分のみを、紙幣増刷という手法によって賄ってもいいとも私は考える。いずれにしても、カネに対して人間と同じよう征人格を想定する必要はない。
 日本の赤字財政について、行政は徹底的にスリム化してムダを廃するべきと考える。しかし、国の赤字を埋める為に、現実の経済活動を圧迫するような増税をするということは全くバカげたことである。
 今求められるのは「カネ」という方便をいかに活用して,経済の活性化を図るかである。
 勿論「カネ」の信頼性を高める為に徳政令をやれということにはならない。全国民の納得し合意する形での紙幣増刷が今求められるのである。
 こうした大胆な考え方の中でのみ、今日の日本の経済は活性化するということを私は主張したい。