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日本型社会主義を打破せよ

未来第22号に掲載

 私は今から10年余前にソビエト社会主義共和国連邦を二週間にわたって訪れる機会がありました。
 それは私が尊敬してやまない末次先生のミッションの一員に加えられたときのことであります。末次先生は北方領土を日本に復帰させようとする運動の日本におけるリーダーであり、そのためにソビエト側にも特に国際政治アカデミーのごとき団体を通じて、多くの知人を持っておられました。
 その末次先生の人脈の広さのおかげで、この時の視察団は、ソビエトの研究者、党幹部、軍人を含めて通常であれば滅多にお会いすることの出来ない多くの人の会うことができました。
 その中で、私が極めて印象的であったことは、彼らソビエトのエリート達が日本の体制をアメリカ側の資本主義の国というより、むしろソビエトよりの社会主義の体制の国として理解していることでありました。
 この時期ちょうど、ゴルバチョフの共産主義ソビエト解体の寸前ということもあって、ソビエトのペレストロイカの進行する中、ソビエトはどの方向に行くかは、自然と国際社会における最大の関心事であるのみならず、我々にとっても最も気になることでありました。
 そうした背景をもって、私はある研究所の所長に、「現在のペレストロイカなどによる従来型の社会主義を脱皮しつつソビエトはどのような社会を目指すのですか」と質問をしました。
 その時、その研究所の副所長は私の質問に答えて、「我々は日本のような社会主義の国を目指します」と答えたのでありました。
 実に、この二週間に及ぶ我々の視察の間に、「ソビエト社会は日本のような社会主義を目指す」といったソビエト要人の発言は二度三度と聞かされたのであります。なかにはソビエトの軍幹部から、そのような発言を聞いた事もありました。
 彼らは、アメリカ型の資本主義、自由主義に対しては30年余に及ぶ対立構造の中で、まだまだ若干の当時は抵抗を招いており、日本こそ21世紀のソビエトの目指す理想郷と考えていたようであります。
 もっというならば、彼らはアメリカの資本主義社会は、成功した社会ではなく、当時バブルの下降期ではあったものの、世界最大の貿易における債権国である日本が、極めて平等主義、高福祉、順位づけ否定の教育現場をもつ等々の理由から自分達ソビエトが根本的に制度として否定されることなく到達可能な理想郷と思ったに違いありません。
 その後十年が今日、経過しました。
 私たちがソビエトを訪問してから一年もしないうちにベルリンの壁もなくなり、そして、ソビエトもその経済体制を大きく変化させてきました。

 そして今日、我々は、あの時、ゴルバチョフがペレストロイカで苦悩しているように、あるいは、それ以上に日本の社会システムのあり方に苦悩をしています。
 私は、十年前のあの時、まず社会主義社会が自由主義に負けた、敗北したと多くの学者も宣伝するのを聞きました。
 そしてそれは事実でありました。
 そもそも、人間を機械的に捉え、平等の発想のもとに、個人の財産を結果として平等にしていこうとする発想が、一人一人のやる気を削いで、もっとも能力のない人間や不真面目な人間に全体のレベルを合わせてしまう危険性が内蔵されていたといえるでしょう。
 ソビエト社会の共産革命のあった1917年の当時は工業における生産性を含めて他の自由主義の国の成長率をはるかに超えてきてにもかかわらずその革命のによる狂熱が去った時に、社会は、まさにまさにその危険性を露呈したといえます。
 そして我が日本社会も累進課税とか等あるものの、ソビエトのように極論な平等主義である結果としての財産の平等まで踏み込むことはありませんでした。しかし、人間の能力は平等であるという、中世のスコラ哲学的な批判を許さぬ発想のもとで教育現場は推移してきたし、社会の正義もその中で考えられてきたという点では、ソビエトなみの教条主義であったともいえるでしょう。
 こう考えてくると、今日、ソビエトの敗北、、東ヨーロッパの敗北という、個人財産と平等すら絶対とした社会主義の敗北に引き続いて、我々が味わっているのは、日本型社会主義ともいえる、能力の不平等を認めない社会主義の国際化社会の中における敗北と言えるでしょう。
 したがって私は、今日、我々が経済的に瀕している危機というものは、ソビエトにおいて十年前に生じた危機と時間的には前後するものの、内容的には極めて類似するものであると考えます。
 すなわち、それは日本型社会主義の危機であります。
 平等という発想を金科玉条のように考えている我々の社会主義の危機であります。
 そしてソビエトにおけるペレストロイカ政策に始まる社会主義の前後と今日の無政府状態、また経済的混乱を教訓として、私たちは多くの事を学ぶべきだと考えます。
 もちろん今回、日本において行われている混乱も失業率の増大を含む経済の弱体化は、かつてソビエトが、世界の二大国の地位から一瞬して滑り落ちた原因でもあった、いわゆる悪不平等に原因があることは、すでに述べた通りであります。
 自然の貴族主義的システムから考えると、今日の日本における極端な平等主義は、結果として1人ひとりに内在する潜在能力、「火事場の馬鹿力」を封殺してしまっていると考えられます。確かにソビエトのように結果の平等まで保証してしまって、徹底的に一人一人の企業家精神を否定するものよりはましてではありますが。平等を至上命題とするような今日の風潮は今後の激動する世界に対応できないでしょう。
 したがって我々は、この戦後半世紀続いて来たシステムと人間観に終止符を打たなければ、ソビエトのペレストロイカ以降の経済的危機に私たちも遭遇するに違いありません。
 しかし、そのシステムの変革を、日本のお国柄や伝統や国民性を度外視して、一般論として欧米風に急速に変化しようとすれば、ソビエトにおける失敗に追随することになるのでありましょう。
 六十年間という長きにわたって「平等」を思想信条として来た我々が、あえて踏みこみ「不平等であることが自然体」であり「機会の平等を可能な限り求めよう」とすることは、一朝一夕にはできないのであります。
 それでは一体、どこから手をつけるべきかということになります。
 そのまず第一は、教育現場における偽善に満ちた平等を排することから始めなければならないのであります。
 そして、教育の現場におけるこの発想の転換が、一定の成果をあげるまでの間は、その法律の施行まで時間を稼ぎ、アナウンス効果を持つ方式で税制やその他システムの法的整備を行なうべきと考えます。
 具体的には、その施行時期がいつなのかは別として、今日の累進課税が世界一高いといわれる所得税制についての変革や、相続税についての見通しを、速やかに行なっていく必要があるのでありましょう。
 繰り返しますが、それをすぐに言論するのではなく、「不平等が自然」であり、平等とは「機会の平等」であるというコンセンサスをコモンセンスに変えていく間は、税制もそのように変わるというアナウンスメントをすることで留めるべきと考えます。
 しかし現代社会は、かつての能力を問うのではなく、その人間の会社に奉公した時間を基準とした「終身雇用」「年功序列」、社会の崩壊の危機に瀕しています。
 私見では、青少年の教育現場における「悪不平等」に対して、成人社会における「悪不平等」は、この概論に能力の平等を前提にした「終身雇用」と「年功序列」にあったと言えます。   
 しかし、この日本の労働システムは、ある意味において「一人の給与所得者」がその全精力を会社の為に出し切る可能性を秘めている点においては、画期的システムとして戦後二十年から三十年にわたって機能したことを我々は知っています。
 問題は、このシステムが、会社の発展や社会の右肩上がりといった成長への情熱と可能性を経済がもたなくなった今日、プラスに機能していないことであります。
 そして現実には、どんどんと能力主義を会社システムとして採用する企業が増えています。
 しかし、能力主義という美名に隠れた、単なる経営能力不足を隠すための切り捨てに過ぎないとも、私は考えます。
 しかし、この現象は今後どんどんと進行する可能性があり、それ自体が日本社会と経済システムを混乱に陥らせる新しい因子となるに違いありません。
 したがって、この急場をしのぐためには、すでに昨年の「未来」に私が述べたように、土地の値段を上げて、中小企業経営者といわれる経済の世界のオピニオン・リーダー達のマインドを高揚させることが第一に必要であり、また第二には、従来型の公共事業ではない、政府主導の消費物資、サービスの購入を、とりわけ「年功序列」「終身雇用」が過激なまでに速く訪れつつある幾つかの業界に的を絞って行なって、そうしたトレンドが社会的風潮となることを喰い止めなければなりません。
 そういう意味では、あまりに急速に旧来の制度の崩壊を招来するよりも、日本リースの事実上の倒産や、日債銀の問題は、もう少し違った対応をするべきではなかったかと私は考えます。
 もちろん、従来の「甘え」の構造は許すべきでもないし、命懸けの経営をしてこなかったことも許されません。
 しかし同時に、大手の企業がどんどんと潰れることによって社会の急激に過ぎるシステムの変化が招来されれば、必ず我が国はソビエトと同時に「変革の失敗」のツケを五十年にわたって払わなければならないことになるでしょう。
 私は「シロ」か、「クロ」かという議論よりも、その間に、シロに近い灰色やクロに近い灰色があることを主張したいと思います。
 具体的には、日債銀も日本リースも、その企業としての命を否定することよりも、例えば経営陣はもとより従業員の給与を減らすなどして、当然、民間企業であれば危機に瀕して行なうリストラをもっと徹底的に行なうべきであったと思います。
 私の恩師である、松下幸之助氏率いる松下電器産業が、一時大型な不況の時に、誰もが社員の数を半減させなければならないと進言したそうであります。
 しかし松下さんは、それをせずに全員半日で働き、給料は半分とし、そして午後は、在庫を処分させるために社員全員に営業をさせたといいます。
 この結果として松下さんは、この危機を一気に乗り越えて、同時に社員の会社に対する忠誠心を高からしめることができたといいます。
 企業の資産というものは、その企業が生命を持つ限りにおける資産であります。
 その企業が生命を失ってしまったら、その資産の価値は半減します。
 このことを、恐らく経営に携わったことのない官僚は理解できないから、安直に日本リースとか、日債銀の生命をとってしまうのであろうと、ある経営者が言っていましたが、まさにその通りでしょう。
 ともあれ、今後、我々の社会に生じるダメージは計り知れないが、一定の時間を稼ぎつつ、ソビエトに見られたような変革の失敗だけは避けなければなりません。
 これからが「実力主義の時代」であるとか、「真の自由主義が訪れた」とかいう美名のもとに、今日の混乱を正当化することは、プラスではありません。
 今日の短絡的、短期的「能力主義社会」の到来は、日本の危機であるという状況を、官民一丸となって持って知恵をふりしぼって対処することこそが肝心であります。
 そしてその為には、税制上の改革を、時限設定して立ち上げることと、速やかに教育の現場における「平等とは機会の平等である」という大原則に立った、指導理念の変革を行なうことが重要であります。 
 そしてその一方で、いかに時間を世界の動向に歩調を合わせながら稼ぐのかについてのアクションプログラムを設定し、有効に行政の指導を行ないながら、そのことについての国民のコンセンサスを形成することが必要であります。