spacer menu home menu prof menu kouya menu seisaku menu kouenkai menu kiroku menu media menu link spacer

 

民主主義更正論(3)

未来第24号に掲載

 十年近く前から、酸性雨のことは大きな問題として、クローズアップされてきている。 
 酸性雨ということは、文字通り、酸性の雨が降るということであって、極端なことを云えば、硫酸が天から降ってくるのと同じである。従って、酸性雨は、樹木やそれに類するもののみならず、歴史的建造物を含む建築に対しても、おびただしい被害を与えているのである。
 今は、世界の森林といえば、アマゾンの大森林がすぐに想起されるが、一時代前にはドイツの森林というのが「森」の代名詞であった。このドイツの森林もいまやその過半が酸性雨の影響によって蝕まれ、あるいは荒廃をしているとすら言われている。
 そもそも人間は森に住んでいたいというその発生を考えるときに、この森林破壊は極めて人類の生存を脅かす一大事と言える。
 それで同じように、今回、地球におけるオゾン層の破壊ということが危機として浮上している。
 オゾン層とは、紫外線や赤外線から人体やほかの動物を守る大きな層である。しかし、今日、フロムガスを等によってこのオゾン層が急速に失われつつある。
 地球の森林と植物によって、何億年もかけて形成されたこのオゾン層が僅か百年余の産業の進展の中で、一気に加速的に失われつつあるのである。すでに南極や北極といった従来からのオゾン層が薄かったところだけではなく、オーストラリアの海岸沖などでも、人体に対して皮膚ガンの発生等の目に見える多くの被害が生じつつある程に、オゾン層は失われつつある。
 このことによって、南極のペンギンがその生存の危機に瀕しているとも言われている。
 そのうち「日光浴」というコトバすら、遠く懐かしい過去の私語となってしまう日がくるかもしれない。海水浴に行くことすら、命がけということになってしまうと、我々のレジャーの大きな部分が失われることになるであろう。
 更にCO2の増大による地球温暖化が進んでいる。ヒート・アイランド現象と言われる都市における過熱化も、その理由にあるかもしれないが、この一世紀の間に毎日の平均気温が、東京において、1℃以上上昇しているということは、長い地域の歴史の中で、異常の異常である。
 こうしたことの結果として、地球の南北にある氷が溶解をし始めている。将来的には、生態系の檄変を伴いながら、海面の水位の上昇は避けられないに違いない。
 こうした現象は、新たに世界の人口の1/3を占めると言われている、中国の昨今における10億人の豊かさを求める巨大な近代化や、東ヨーロッパの共産主義の崩壊に伴う、資本主義の豊かさに対する強烈な憧れを基本とした物質文明への傾斜の中で、加速度的に地球環境の産業による破壊は進み、CO2やオゾン層の破壊、酸性雨の増大や地球温暖化において、更にきびしい状況を迎えようとしている。
 公害に対する経験と知識が乏しい中、更にそれに廻す資金があれば、一切合財を建築に廻さなければならないような資金的背景を持つ、こうした新規資本主義参画国は、現状の地球環境の危機を更に高めるのである。
 我々の危機は、地球上の自然環境の部分だけを見ても、これだけ目前に大きくなっている。しかし、我々を取り巻く危機は環境問題にとどまらず、身近な生活においても発生している。
 例えば、我々の食生活においても、人体に対する危機というものはかつてないほどに高まっている。
 ある魚の養殖場では、そんな背景が異常であったりする魚がやたらと高い比率で採れるという。それゆえに、そこの養殖場の人たちは、自分達のつくった魚をとても食べる気にならないという話すら、時々耳にする。こんなことも含め、人体に有害な食物を我々は知らず知らずのうちに大量に摂取していることが多い。
 しかし、我々が魚を好んで食べるときに、実にその魚の背景が曲がっていたり、内臓が異常であったりしても「切れ身」になっていると、それに気が付くことはない。
 まさに食の安全は極めて危ういといえる。
 しかし、その食の安全以前に、食そのものの充足ができるのかということが問題になってきている。
 それは即ち人々の爆発路線増加とも言うべきものが原因であって、今世紀初めには二十億人に至ってなかった人間の数は今や、3倍の60億人を超えようとしている。
 地球という羊水は一体どの位の人間を養うことができるのであろうか?
 と、いう疑問は、誰しも、考えるところであるのみならず、こうした事態が、人類そのものの思考や行動に異常をきたすことすら、ありうるのではないかと思われる。
 かつて、人口論を書いたユルサスは、戦争は人口を一定に保つための天意であるとした。
 このことは、ヒューマニズムの発想で許されるものではないが、今日のエイズの蔓延にしても、地球が人間のキャパシティーを一定に守るための節理であると考える思想家すらいることと、ある種同じ考えかもしれない。
 つまり、過ぎたるは及ばざるが如しというコトワザがあるように、今日の地球における人類の爆発的増大は、結果として、人間を地球という生命にとって害虫としているという考え方もあるのである。
 こうした中、人類の科学技術は、過去何世紀かに及んで人間の生活をプラスに導くものであった。しかしそれ自体が、かつて想像もつかなかった人口の増大を招来し、地球環境の破壊を行ない、そして、地球を何百回を破壊し尽くせる核の実現を含む、人類に対する自らの凶器とすらなっている。
 かつて、マンモスは長いキバを持っていた。
 氷河期に地球の王者であったマンモスは、その生存のために、長いキバを持っていた。しかしそのキバが長くなりすぎて、亡びてしまったと解説する人が居るが、もしそれが真実であるとすれば、我々人間にとっての「文明」や「社会」というものが、まさに、この両刃の剣とも言えるマンモスのキバと同じようなものと言えるであろう。
 こうした二十一世紀を目前にして、さまざまな危機が顕在化し、増大している中で、民主主義はその危機の克服に向かって、正常に機能しうるかどうかが、今、問われていると言える。
 そもそも民主主義の属性の一つは、その豊かさにあったと、私は「民主主義構成論」の中で説いた。
 そして、この豊かさは、それを享受する人間の自由に裏付けられるものであった。つまり、ルネサンスの都市において、民主主義への思想的背景ともなった「ヒューマニズム」は、大きな思想における果実となったのであるが、このヒューマニズムの大きな構成要素は「自由」であった。
 例えばフランス革命において、三色旗のあらわす内容は、「自由」「平和」「平等」ということであったこと自体が、地域に、クサリによって縛り付けられた多くの人々によって、自由であるということが何よりも素晴らしいと思われた証明である。
 まだベルリンの壁が東西冷戦のシンボルとしてそびえていた時、多くの東ベルリンの人が命を落とし、また命をかけて、西ベルリンに壁を越えて移動した。西ベルリンにある「自由」と「豊かさ」は、命を賭けるに値する素晴らしいモノであったのだ。
 一人一人の人間に対して、身分からの自由、行動の自由、思想の自由は生活の豊かさと相まって、民主主義の持つ甘い蜜のような属性として命を賭けるに値したのである。
 そして、この「自由」と「豊かさ」は民主主義の魅力的なる属性として双方が補い合ってより高まっていった。
 何かを行動する自由、味わう自由、満足する自由は、貧しけれは絵に書いたモチであり、そこに様々な可能性と富と利便さとがあるときに、はじめて「自由」というものに美しい色合いが出てくるのである。
 つまり民主主義の根本的ライトモチーフとしては、富とともに自由があった。
 豊かさが一層の可能性と享楽を人間に提供し、人間は更に自由を謳歌しようと、更なる豊かさを追い求めた。自由と豊かさは、車の車輪の如く、人間を生態系上の一生物から全く別の飽くことを知らぬ存在に変えていった。
 そして、こうした人類生存の危機を迎えている今日においては、民主主義の属性であった「自由」と「豊かさ」については、むしろ抑制をする必要があると考えられ始めた。そして、その自由を謳歌しながら、人間は今日の危機的状況に至ってしまった。むしろ今日、必要なことは、その自由ではなく、その自由を抑制し、地球環境を守り、人口の増大を防ぐ「強制力」を伴う民主主義になってきているとさえ言えるのである。
 しかし例えば、太古からの男女が恋愛をしてる子供をつくる自由と権利を、民主主義国家において「強制力」でもって抑制できるであろうか。
 共産主義であるお隣の中国では、人口の爆発的増大を防ぐために「一人っ子政策」を採用している。しかし、現実には、表立って国家や役所に登録する子供は一人であっても、実際、地方の農村などに行くと何人もの子供が居るのが実情といわれる。
 つまり、共産主義国家ですら、人口に抑制ができない中、通常の民主主義国家では、自発的に女性が子供を産まなくならない限りは、こうした人口の抑制はなかなかできないのではないだろうか。
 しかし、我々の目前に迫り来る危機は、オゾン層の破壊、CO2の増大、酸性雨の人口爆発など、その一つ一つをとってみても、その解決は必死の決意による人類一人一人に対する自己抑制が必要であり、しかも、今すぐにでも解決されなければ遅きに失する課題ばかりであろう。またそのどれ一つでも解決できなければ、人類は生存の危機に瀕するといえる。
 ただし、事が地球レベルで進んでいるために、一人一人の地球市民は、その事柄の重大さを真剣に認識するには、いま一つ実感を伴わないのである。
 それゆえに、今回の世界を救うためには、強制力が伴う新しい民主主義が求められるのである。
 大金持ちであっても、否、大金持ちになれはなる程、その自由は束縛されなけれはならないし、発展途上国の人達も、二十世紀半ばの先進国の夢を追い求められてはこまるにである。
 そして、その場合の地球社会における価値尺度と行動の要因は、現代の経済至上主義から環境至上主義へとシフトしなければならないであろう。
 どうすれば自国の経済発展できるかという過去3世紀の富国強兵に支えられた国家における指導理念は薄れて、どうすれは地球と人間が共生できるかを、社会の活動における指導理念とする時代がくるであろう。
 しかし、この指導理念は地球全体で実行されなけばナンセンスとなってしまう。そこで、世界を一つの意思がコントロールするような地球社会が到来しなければならない。
 その場合、それぞれの民族の主権やら、国家の主権やらは当然、尊重されなければならないが、こと、地球環境に関わる問題については、地球全体によっての意思決定による危機回避が最優先され、また絶対でなくてはならないであろう。
 そして、その中核を占めるのは「力無き正義は無効なり」というコトバにあるように、今日の世界をリードしていくG8の国々とならざるを得ないであろう。
 ここで肝心なことは、発展途上国に対する資金援助などで、人道的見地から行われるものは、当然認めていかなければならないが、経済的見地から行われるものは、むしろ地球環境的見地からみて妥当かどうかを問い直していかなければならないと言えよう。
 従ってG8による地域の意思は、今日のG8側からの発展途上国に対する投資の流れに一定の抑制をおくものになることから始まることとなろう。
 今、我々は二つの道のどちからかに行くかを思いあぐねていると言えよう。
 一つの道は、一人一人の人間の自由と欲求を認める二十世紀型の民主主義をそのまま新世紀において追認していくのか、もう一つは、今日的な自由と豊かさと経済至上主義的な民主主義を超えて、自己抑制の出来る新しい民主主義を目指すのか。
 ある意味において、統制的民主主義ともいえるような後者の民主主義の早期確立なくして、人類の生存は保証されないといえよう。
 この新しい民主主義の形を構想し、研究し、実現をしていく意思が今求められる。
 そして、その思想が、地球規模でモノ事を考えることのできる見識のある有力な知識人によって、国際的にも一定の指示を受けて、一つの新しい民主主義のパラダイムとして確立されることが肝心である。